城データ

城名:塩屋城(えんやじょう)

別名:無し

標高:375m

比高:175m

築城年:南北朝時代

城主:粟屋氏

場所:広島県安芸高田市甲田町上小原

北緯:東経:34.645153/132.728705

塩屋城はここ

 

攻城記

 

塩屋城跡

塩屋城跡はこの北方標高三七五メートルの 山上にある。

 

城主粟屋氏は常陸国粟屋庄に起った武将で、毛利時親に従って建武三年(一三三五)安芸 国に移り、上小原を本貫地としてここを居城 にした。

 

備前守元秀の孫縫殿允元通は毛利家の重臣で、その子元定以下は堅田・山田氏を名乗った。

 

城は比高約一七〇メートルの頂から周四〇 〇メートルにわたって七つの郭がある山城で、 大手は小原側にあり、竪堀・横堀・井戸など

の遺構が多い。

 

また、南方の長谷木城は元通の弟豊島東市佐就信や、一族の清永弥左ェ門らが守った城 であるといわれている。

 

このあたりは城にちなんで城平という。

 

昭和五十七年十二月

向原町教育委員会

 

直登していく。

堀切か。

人工的な石列になっているが、井戸跡か。

曲輪跡。

木の隙間から眼下を臨む。

投石用の石か。

石積み。

この上が本丸。

本丸手前の曲輪。

本丸。

曲輪。

周辺部。

山田川が天然の堀の役割をしている。

 

余湖図【塩屋城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【塩屋城】

拡大図。

 

城の概要

1郭の南に延びる尾根では,西側山腹からの登城路が取りつく浅い堀切を挾んで6郭がある。

 

この堀切に面して高さ約1mの土塁を設け,丘陵先端部(南側)も掘り切っている。

 

北尾根には2郭下方に4・5郭が設けられているが,2郭との間の鞍部は加工痕のない自然地形を残す。

 

4・5郭の北端部では二条の堀切で城域を画しており,緩斜面の広がる西側山腹には横堀をまわし,さらに竪堀四条を置いて防御を固めている。

 

西尾根上にも一か所登城路があり,虎口をなす7郭に至る稜線上には堀切その他の施設は認められない。

 

城主は粟屋氏である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

塩冶城

塩屋城は、向原町と甲田町の境を画する比高一七〇mの丘陵頂部にあった山城である。

 

建武三年(延元元、一三三六)に毛利時親が吉田に下向した際、それに随従した粟屋氏が居城とした。

 

粟屋氏は、代々重臣として毛利氏に仕え、戸島一帯を治めていたといわれ、塩屋城には粟屋備前守元秀の一族が、南方約二㎞にある長谷木城には粟屋東市佐就信の一族が居城していたと伝えられている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

城の歴史

享徳2年(1450):粟屋縫殿が毛利凞元から賦役についての書状を賜る。

 

延徳2年(1490):粟屋元秀が毛利弘元から豊島に地150貫を与えられている。

 

永正4年(1507):4年間京に進駐する。

 

永正6年(1509):毛利興元から備前国津田郷のうち石道名や末数名などを宛行われた。

 

永正13年(1516):粟屋元秀次男の元忠が安芸国上庄松尾要害にて討死する。

 

永正14年(1517):有田中井手の戦いにも従軍する。

 

大永3年(1523):毛利元就の家督相続の書状に粟屋備前守元秀がいる。

『毛利家文書248』

 

同年、毛利元就から安芸東西条の内に給地を宛行われる。

『萩藩閥閲録巻74粟屋縫殿-15』

 

 

享禄5年(1532):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名の中に粟屋元秀がいる。

『毛利家文書396』

 

これら起請文に連なる人物は福原・坂などの一族や粟屋・赤川ら譜代家人、井上、秋山・井原、内藤、三田などの近隣国人領主など、出自を異にする面々である。

 

彼らと元就の関係は、彼らの用水管理や、従者の負債や逃亡への対応など、共同で処理しなければならない問題を抱えていたが、それらは基本的に互いの間で解決することとし、元就には違反者の処分だけを依頼している。

 

この文章は元就に対する起請文という体裁をとっているが、中味からすれば「傍輩」間の一揆契状であり、元就は保証人的立場に過ぎなかったともいえる。

 

彼らは、毛利「家中」としてまとまりは強めつつも個々の自立性が強く、主人への忠節よりも相互の一揆的関係で秩序維持を図っていた。元就からすれば統制しにくい厄介な存在でもあったのである。

『知将 毛利元就』51頁より。

 

弘治3年(1557):福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した中に粟屋元親、元秀がいる。

『毛利家文書402』

 

粟屋元親と元秀が軍勢狼藉禁止令に従うことを誓約した毛利氏家臣団の連署起請文に加わる。

※年代的に元秀ではなく孫の元通と思われる。

 

防長経略により大内氏を滅ぼした元就は吉田に帰った、しかし、その後大内氏の遺臣たちが義隆の遺児を擁立し籠城した為に、再度大内氏遺臣達の残党を打ち破るべく長府へ出発した、その後元就らが富田(周南市)に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており元就らも12月には吉田へと帰った。

 

この起請文は12月2日の日付であり、軍の規律を厳しく統制することが伺える、その中で粟屋氏が記載されている。

 

永禄4年(1561):粟屋元親没。

 

永禄6年(1563):粟屋元宗没(享年78歳) 生年は1486年か。

 

天正13年(1585):粟屋元通が家督を息子の元定に譲る。

 

 

 

城主家系図

城主石高

延徳2年(1490)に粟屋元秀が毛利弘元から豊島に地150貫を与えられている。

 

粟屋縫殿丞(元定)

597.359石

【内訳】

215.942石 安芸高田

021.490石 安芸賀茂

159.849石 安芸佐西

200.080石   備中河上

 

粟屋右京(元信)

74.074石

【内訳】

71.24石 安芸賀茂

2.800石 安芸豊田

所感

●城の造りは非常に凝っており、堀切も沢山ある。

 

●建武3年(1336)毛利時親に従って安芸国吉田に下向したのが粟屋氏のため城もこの時代から長い年月をかけて改修されたと思う。

 

●中世の典型的な山城のためしっかり整備したら地元の宝となる。

 

●有名な粟屋一族で惣領家とは別に活躍した一家。

 

関連URL

【広島県】長見山城【安芸高田市甲田町下小原字内長見】

近隣の城。

 

参考URL

安芸高田市(塩屋城)

安芸高田市広報:お城拝見(塩屋城)

城郭放浪記(安芸塩屋城)

安芸 塩屋城跡(よしだっちの城跡探訪記)

安芸粟屋氏(ウッキペディア)

武家家伝(粟屋氏)

粟屋元秀(ウッキペディア)

粟屋元通(ウッキペディア)

粟屋元親(ウッキペディア)

 

参考文献

『毛利元就のすべて(新装版)』(河合正治編)内の舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/05

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