城データ
城名:小倉山城
別名:小倉城、小蔵山城、紅葉山城
標高:460m
比高:80m
築城年:応永22年(1415)年頃か
城主:吉川氏
場所:広島県山県郡北広島町新庄
北緯:東経:34.770572/132.497070
攻城記
史跡として存在感がある。
二の丸。
二の丸。
広大な空間(御座所)と呼ばれるところ。
本丸跡。
本丸からの景色。
open-hinataより【小倉山城】
余湖図【小倉山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【小倉山城】
城の概要
城の遺構は,小倉山の頂上を中心とし,そこから放射状に南・北・西の三方向に延びる尾根を巧みに利用している。
中央にある本丸部分と二の丸・三の丸・南の郭群とは,堀切で画されている。
本丸部分の南西下には「御座所」とよばれる郭があり,館跡に想定されている。
南北朝末期に吉川経見が駿河丸域から本拠を新庄に移して築城したとされ,以後興経までの約170年間吉川氏の本拠域として用いられたという。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
小倉山城
小倉山城は、島根県境に近い江川上流の新庄盆地北側の丘陵上に位置する山城で、山頂部から四方に延びる尾根をことごとく郭とし、南側に延びる 尾根あるいは山麓、さらには、北側の谷をも防禦施設あるいは居住地として利用した大規模なもので、南北朝時代から戦国時代にかけ安芸吉川氏の本城として長く使用された城である。
位置としては新庄盆地北側のやや奥まったところにあり、水田面との比高は 約八〇mとそれはど高くはないが、山頂からは新庄・大朝の両盆地はもちろん のこと、石州街道を南方千代田へ向かう中山峠への道、北方石州川本へ向かう中三坂峠をも見渡すことができ、領地経営は もちろんのこと、交通 の要所をも押さえた要 地にある城ということができる。
城の創建年代につい ては異説もあるが、南 北朝末期に安芸吉川氏する 四代経見が、大朝の駿河丸城から本拠をここ に移したという説が有 力で、以後、五代経信・ 六代経,七代経基・ 八代国経・九代元経・ 十代興経と七代続き、 毛利氏から入った十一 代の元春が天文十九年 (一五五〇)、日の山城 に本拠を移すまで、約百七十年間、安芸吉川氏の本拠であった。
このように長期にわたり、吉川氏の 本城として用いられたことから、その間には幾度となく城地の拡大がなされた ことが考えられるが、特に応仁・文明の乱後の七代経基の代には、領地が大幅に拡大しており、それに伴って城の整備も進んだものと考えられる。
これは、 小倉山城では一度も戦闘の記録がないことから、平和のうちに少しずつ拡大・ 整備していったものと思われる。
『日本城郭大系』13より一部引用。
【城 史】
南北朝末期に、吉川氏一族の経見が石見国から本拠を 移して築城し、吉川氏全体の惣領の地位を室町幕府から 承認される応永二十二年(一四一五)頃本拠城となった と考えられる。
室町期の吉川氏は、前惣領が隠居後も新惣領の下で外交・軍事に当たるという「惣領ー隠居」制を採用してい た。
これを反映して、惣領が本丸に、隠居(前惣領)が 三の丸に、それぞれ居住していたと考えられる。
このシ ステムは、隠居の祖父国経が当主興経を支える天文十三 年(一五四四)頃まで続いたと考えられる。
同十五年(一五四六)には日山城が本拠城となっているので、同十四年(一五四五)頃興経が本拠城を移したと思われる。
本拠移転の背景には、隠居の祖父国経の死 去に伴う興経の権力一元化があった。
興経は、大朝新荘 と山県表の境目に位置する火野山へ築城し、尼子方の旗 幟を鮮明にして大内方の毛利氏を攻撃する意思を示した のである。
『安芸の城館』より一部引用。
城の歴史
応永22年(1415):この頃吉川経見が駿河丸城から居城を移す。
天文14年(1545):吉川興経が居城を日山城に移す。
城主家系図
所感
●安芸吉川氏のほとんどの当主がこの城を拠点に活動していた。
●毛利元就の妻(吉川元春の母)もこの城で生まれたと思われる。
●城域は広大で御座所と呼ばれるところは特に広い。
●本丸跡は長い年月の間に幾度となく、建物の建築をされていたと思われる。
関連URL
歴代吉川氏の居城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/11