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城データ

城名:今高野山城

別名:甲山城

標高:509m

比高:180m

築城年:永正年間(1504~21)

城主:上原氏

場所:広島県世羅郡世羅町甲山字古城山

北緯:東経:34.581804/133.057514

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※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

攻城記

あの山頂を目指す。

散策しやすいようになっているので簡単に登れる。

途中の削平地。

甲岩→甲山となったか。

ここが山頂になる。

模擬天守(三の丸にある)

昔は大田庄と呼ばれていた。

山頂からの眺望。

 

余湖図【今高野山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【今高野山城】

城の概要

最高所の郭から北側に向かって郭を配し,背後の南側には堀切を設けている。

 

北端の郭は第二次世界大戦中に航空看守所がつくられ,また現在では展望台がつくられたため破壊され,現状が明確でなくなっている。

 

なお、展望台建設時の発掘調査では備前焼片,土師質土器が出土している。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

今高野山城

広島県のほぼ中央に位置する世羅郡一帯は、世羅台地と呼ばれるように標高 三〇〇mの低平な山並がよく発達しているが、ところどころにひときわ際立つ円錐状の玄武岩鐘がそびえている。

 

また、この台地は瀬戸内海・日本海にそそ 羅ぐ芦田川・馬洗川の分水嶺にあたり、無数の小支谷が形成されている。

 

このうち 、郡中央に広がる大田盆地は、中世高野山領大田荘の中心地域で、今高野山城は、この盆地の南側中央付近の独立峰に構築されている。

 

城主は、『芸藩通志』によれば、上原豊後元広・同右衛門大夫元祐(一説には 上原民部少輔元輔)で、永正年間頃より本城に拠るとみえている。

 

これに対し、「西備名区』では、山内大和守直通・上原民部少輔元資源・同右衛門佐元佐・同右衛門大夫元祐と記している。

 

また、『東大田村史』によれば、地毗荘の甲山城主、 山内豊成が甲山城を子直通に譲り、この地に至って今高野山城を築いて住したとし、山内豊成―隆通ー元通―元資―元佐―元祐と系譜を掲げる一方、城主は吉舎南天山城主和智氏一族で、上原家実―豊将-元祐とする一説もあることを 述べている。

 

特に今高野山龍華寺にある十二燈明台の脚に「大旦那、藤原氏和知右衛門太夫豊将」「弘治二年丙辰三日吉日」と刻されているところから、戦国時代には上原氏の居城であったと考えられる。

 

なお、上原元祐(元将)は、毛利元 就の女婿である。

 

元祐は、備中高松城の戦いに日幡(畑)城番として出兵したが、 豊臣秀吉が内応したためにその室に討たれ、室もみずから殉じたと伝えられている。

 

一方、『陰徳太平記』によれば、日幡季則を討って秀吉に内応、のちに京都に亡命したとみえている。

 

本城は、標高五〇九mの独立峰頂部を削平して構築された山城である。

 

この西から東に向かって流れる芦田川が濠としての機能を果たしてまた、東側には今高野山龍華寺があり、そこからの登山道が大手道と考えられる。

 

郭は、頂部南側に本丸があり、そこから北側にかけては、二の丸をはじめ 多くの小郭が構築されている。

 

特に西側の郭は数段からなり、帯郭状に配置さ れている。

 

南側は、本丸から約八mの急崖をなして次の郭に続き、さらに多く 配置されている。

 

そして、東側では、ほぼ中腹あたりまで郭が構築さえている。

 

また一部の郭には石垣が築かれていたといわれており、南方に所在 する極楽寺にその石が運ばれたことが龍華寺の絵図にみえている。

 

『日本城郭大系』13より引用。

 

 

今高野山城跡 甲山町甲山古城山

今高野山のあった甲山と世羅町東神崎の境にある古城山にあり、甲山城ともいう。

 

「芸藩通志」によると、永正 (一五〇四~二一)頃から上原氏(上原元広・元祐、一説に上原元輔)が居城し、天正四年(一五七六)に元祐が西上原村の沼城 に移ったと記す。

 

また弘治二年(一五五六)に今高野山を再建した和智豊将の居城とも伝える。

 

上原氏は和智氏の一 族で、室町末期に世羅郡東部に南下して勢力を扶植し、 弘治三年二月二日の毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文案(毛利家文書)の傘連判状案に上原右大夫豊将が名を連 ねている。

 

城の歴史

永正年間(1504~21):上原氏の居城と伝わる。

 

弘治2年(1556):和智豊将の居城とも伝わる(和智豊将は上原豊将のこと)

 

弘治3年(1557):毛利家文書225号に記載あり。

 

天正4年(1576):上原元祐が西上原村の沼城 に移ったと記す。

 

天正10年(1580):上原元祐が備中高松城防衛戦の時に、豊臣秀吉に寝返る。

 

城主家系図

 

所感

●城は16世紀前半に上原氏(和智氏庶流)が居城として使用していた。

 

●上原豊将はこの地域の有力国衆であり、元就の三女を息子の元将(元祐)に嫁がせる位の実力を有していた。

 

●しかし、元将(元祐)が羽柴秀吉に寝返った為、上原氏は断絶する。

 

●『東大田村史』によれば、地毗荘の甲山城主、 山内豊成が甲山城を子直通に譲り、この地に至って今高野山城を築いて住したともあるが、時代が合わない。

 

しかし、山内豊成がこの地に勢力の扶植をしていた傍証もあるため、上原氏以前に一時的にせよ山内氏が太田庄の一部を支配しており、その時に今高野山城を築城していれば、城主が山内氏であった可能性も否定できない。

 

山内首藤文書165号

※明応3年(1494)付書状

 

関連URL

参考URL

備後 今高野山城跡(よしだっちの城跡探訪記)

武家家伝(和智氏)

上原元将(ウッキペディア)

上原豊将(毛利元就家臣列伝)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/02/06

 

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