城データ
城名:古川城
別名:七郎城
標高:七郎古城
比高:150m
築城年:50m
城主:三田氏
場所:広島県広島市安佐北区白木町三田
北緯:東経:34.519098/132.623421
攻城記
そのまま進んでいく。
石積み発見。
曲輪跡。
堀切。
見どころである石垣。
本丸の標識。
位置関係
open-hinataより【古川城】
余湖図【古川城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【七郎古城】
正覚寺【菩提寺】
七郎少輔元実や五郎右衛門吉秀が眠っていると云われる。
高覚庵【三田氏墓所】
古川城主とされる、三田備前守元秀もここに眠っている。
城の概要
城跡は、四つの郭群からなっている。
最高所の1郭を中心とする郭群は南東方向に大小二つ郭を並べ、北に堀切を設けている。
堀切の北側の郭群は、大小七つの郭を階段状に置いている。
1郭の南西側斜面には、帯郭・小郭など八つの郭を雁木状に配した郭群がある。
これらの郭群と谷を隔てた東側下手には石塁と堀切に囲まれた削平地がある。
このような城郭の構造から、本城跡が三田氏の本城である可能性が高いと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
古川城
七郎城と呼んでいるが、この名は国郡志書出帳以前に見ることがないので、果してこ の城が七郎城と呼ばれていたか不明である。
国郡志書出帳の三田氏に関する記事は不審多く、三田少輔七郎を城主とするため勝手に名付けたのではないかと思われ。
最後に古川城に住んでいたのは少輔七郎と家系の異なる備前守であった。
備前守は元秀と言い、天正年中に長子六郎兵衛が農民となって柳原山根に居を移した 後、次子小次郎と古川に残って武士を保った。
小次郎が朝鮮の役に討死すると孫(六郎兵衛の次子)に後を継がせた。
これを正畠六右衛門と言った。
備前守が如何に古川の地に親 んでいたか窺われるのである。
これは一に父祖の地であるからであろう。
備前守の父は能登守で、三田の永井氏が始祖としている。
永井氏、本姓は藤原氏、名は元吉であった。
天文の頃毛利氏に属したが、同十年(一五四一)毛利氏が廿日市主佐伯神主興藤を亡ぼすと、三田の領主を弟の永井右衛門太夫に譲った。
能登守の母は神主家の女であり、子備前守の妻は府中の田所上郷の女で神主家に親近し、その意滅亡を遺憾としたらしい。
神主家の家紋を永井の替紋に用い記念としたと言われ、 頃までこの替紋を用い続けていた。
能登守の父は周防守元盛である。
城の遺構については近時広島市教育委員会から発行された「山城」に詳しい。
城の歴史
永仁6年(1298):厳島社領三田新庄の上村と下村の境界を定める。
永正4年(1507):毛利興元、三田小次郎に高田郡長屋村以下を与え、これに応じて小次郎の父三田元親が興元に忠誠を誓う。
大永4年( 1524):『陰徳太平記』に尼子側として武田氏が籠もる安芸銀山城の救援に秋山等と向かう記載有り。
天文元年(1532):三田元実、秋山親吉等と共に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。
天文8年(1539):柳原八幡宮棟札に「藤原朝臣能登守元吉」が見える。
天文10年(1541):三田元吉は毛利氏が厳島神主家の友田興藤を攻めて滅ぼす、母親や妻が神主関係の血族だったので、遺憾に思い弟に家督を継がせる。
天文19年(1550):三田元親、秋山元継等と共に元就の上意に従うなどを誓約。
弘治3年(1557):三田周防守、秋山元継等と共に軍勢狼籍禁止命令に従うことを誓約。
天正年中:(1573~92):この頃、元吉の孫である六郎兵衛は帰農する、しかし、元秀は次男である小次郎と古川城に残る。
朝鮮の役(1592~93:1597~98):この戦で小次郎が戦死する、家督は帰農した六郎兵衛の次男に継がせた。
城主家系図
家系図には伝承が誤って伝わっている可能性もあり、絶対ではない。
城主石高
三田少輔七郎(元実)
1220.068石
【内訳】
952.167石 安芸 高田
267.901石 備後 三谷
三田五郎右衛門(吉秀か)
33.159石 安芸 佐東
所感
●城の遺構、大きさからこちらが三田氏の本城だと思われる。
●石垣も多用しており、戦国時代も末期頃まで築城されていた可能性もある。
●付近には三田氏の菩提寺もあり、城を中心とした城下町も形成されていたのかもしれない。
関連URL
参考URL
参考文献
『わがふるさと芸州三田』永井彌六著
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/30