城データ

城名:三田新城

別名:無し

標高:98m

比高:10m

築城年:戦国時代

城主:三田氏

場所:広島県広島市安佐北区白木町三田

北緯:東経:34.524230/132.622206

三田新城はここ

 

 

攻城記

現在は社があるが、後世のもの。

 

三田五郎右衛門屋敷跡

 

三田氏系図

新城は、三田五郎右衛門吉秀の屋敷のあっ たところ。

 

吉秀は毛利の御家人で知行三千石を給された。

 

秀吉の朝鮮役に従軍し、帰国ののち慶長三年(一五五八)ママ伏見において病没した。

 

墓は畑、正覚寺墓地にある。

 

その子久七郎が 毛利輝元の移封に従って萩に移っなので五郎右衛門は最後の三田の領主(三田の殿)であったわけである。

 

今ここにある王地権現は昭和十二年岡の山中にあったのを移したもので、三田氏とは関 係ない。

 

三田郷土史同好会

寄贈者 広島北ライオンズクラブ

広い敷地で、また若干比高もあり見通しも良い。

城の線路側には若干の削平地もある。。

城の範囲はつかみにくい。

眼下には三篠川も見える。

この石垣は屋敷があった当時のものか、後世のものか不明。

線路側降りたところ、こちらは急峻で攻めることは困難。

三田新城全景。

戦国時代初期にこの場所で秋山氏と三田氏が戦をしたという伝承がある。

 

位置関係

 

open-hinataより【三田新城】

 

『芸藩通志』【三田新城】

 

 

城の概要

岡(おか)

城は三田五郎右衛門の宅址である。

 

五郎右衛門は「三田の殿」で、毛利氏に従って朝鮮の役に従軍した武将であった。

 

京都伏見に滞在中、慶長三年(一五九八)二月八日、 その地で病死した。

 

その節、柳原の三郎右衛門という者が見舞に上洛していて幹旋し、 死体を三田に守り下ったという。

 

五郎右衛門は浄土宗に改宗していて、広島から海善寺 (後に戒善等と改む)を招いて取置いた。

 

墓は畑の正覚寺にある。

 

五郎右衛門の死につい て簡単ながら数種の記録があって、最後の「三田の殿」の葬儀として三田の人に深い印象を与えたのであろう。

 

関ヶ原役の後毛利氏に随って萩に移ったのは三田久七郎であった。

 

毛利氏は減封されて萩に移るので随従者を制限した。

 

久七郎の一族や家臣の多くは三田に残った。

 

一族で岡に居残ったのは誰であったろうか。

 

土居助右衛門に「先祖井に一類中忌日之覚」があってその内に岡の久兵衛がある。

 

没年は元和五年四月二十五日で、朝鮮の役に従軍しっている。

 

この人が久七郎の族人で岡に居残ったのであろう。

 

その子を次郎右衛門といい寛文四年四月二日に岡で没した。

 

「岡の衆精を入れ取置き申し候」とある。

 

別に灰屋久兵衛がいる。灰を焼いて藩に納めていたが、浅野氏になって元和六年より灰札百五十目を納めた。

 

この灰屋久兵衛と岡の久兵衛とは同一人ではないかと思うが、 確かめることができない。

 

『わがふるさと芸州三田』より引用。

 

海戸では家並みの間を行く。

 

家並みを過ぎ、芸備線弥谷踏み切りを渡る。

 

この上の尾根上には三田新城跡がある。

 

「国郡志御用ニ付下調書出帳」 には「新城 瀬戸郷より海戸郷江移る往還ノ上二有之。少輔七郎ノ嫡子 三田能登守元吉 元吉の二男五郎右衛門元親二代の居城跡也。

 

五郎右衛 門尉輝元卿に順ひ長州江移転後廃城す」とある。

 

付近には三田五郎右衛 門の屋敷跡も残されている。

 

城の歴史

慶長3年(1598):毛利氏に従って朝鮮の役に参加した、その後、京都伏見に滞在中に病死した。

 

永仁6年(1298):厳島社領三田新庄の上村と下村の境界を定める。

 

永正4年(1507):毛利興元、三田小次郎に高田郡長屋村以下を与え、これに応じて小次郎の父三田元親が興元に忠誠を誓う。

 

大永4年( 1524):『陰徳太平記』に尼子側として武田氏が籠もる安芸銀山城の救援に秋山等と向かう記載有り。

 

天文元年(1532):三田元実、秋山親吉等と共に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。

 

天文8年(1539):柳原八幡宮棟札に「藤原朝臣能登守元吉」が見える。

 

天文10年(1541):三田元吉は毛利氏が厳島神主家の友田興藤を攻めて滅ぼす、母親や妻が神主関係の血族だったので、遺憾に思い弟に家督を継がせる。

 

天文19年(1550):三田元親、秋山元継等と共に元就の上意に従うなどを誓約。

 

弘治3年(1557):三田周防守、秋山元継等と共に軍勢狼籍禁止命令に従うことを誓約。

 

天正年中:(1573~92):この頃、元吉の孫である六郎兵衛は帰農する、しかし、元秀は次男である小次郎と古川城に残る。

 

朝鮮の役(1592~93:1597~98):この戦で小次郎が戦死する、家督は帰農した六郎兵衛の次男に継がせた。

 

城主家系図

家系図には伝承が誤って伝わっている可能性もあり、絶対ではない。

 

城主石高

三田少輔七郎(元実)

1220.068石

【内訳】

952.167石  安芸 高田

267.901石  備後 三谷

 

三田五郎右衛門(吉秀か)

33.159石     安芸 佐東

 

所感

●芸藩通志では三田五郎右エ門宅跡とある。

 

●五郎右衛門は吉秀といい、朝鮮の役にも出陣している為、戦国時代でもかなり最期の方の当主である。

 

●城というよりも、この地に城館跡が形成されていたとも考えられる。

 

●比高は10m余りであるが、東は三篠川が流れており天然の要塞である。

 

●戦国時代初期には秋山氏とこの付近である「弥谷」という場所にて合戦が行われたという言い伝えがあるため、城の成立はもう少し遡れるかもしれない。

 

関連URL

【広島市安佐北区白木町】中世秋山氏について

【広島県】古川城【広島市安佐北区白木町三田】

【広島県】萩原城【広島市安佐北区白木町三田】

 

参考URL

宮原観音堂

open-hinata

 

参考文献

『わがふるさと芸州三田』永井彌六著

『白木町史』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/01/30

 

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