城データ
城名:平原城
別名:己斐城、己斐新城、茶臼山城、小茶臼城
標高:200m
比高:100m
築城年:不明
城主:己斐氏、城代として戸坂信成が入城した時もあった。
場所:広島県広島市西区己斐中
北緯:東経:34.407797/132.424907
攻城記
小学校の隣に入り口がある。
階段を登れば城域に突入。
縦堀跡。
南郭跡。
西郭跡。
本丸を見上げる。
二の丸跡。
本丸跡。
己斐城跡 (平原城跡)
所在地 茶臼山(200.2m) 現在通称 小茶臼
西区己斐上四丁目茶臼185
平原城跡は中世の山城跡で、己斐にある四城跡の一つであり、地元では平原城跡、一般には己斐城跡・己斐新城・茶臼山城跡の名で知られている。
構築の歴史は鎌倉時代中期までさかのぼると推定され、厳島合戦(弘治元年・1555)当時まで要衝として争奪の渦中にまきこまれたが、以後は廃城となった。
その間、永世12年(1515)武田元繁に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端であった。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)の辞世の歌を残し、有田の戦で討死したが、勇猛と義に厚い武将として著名であり、その死が惜しまれた。
その子・己斐豊後守直之は厳島合戦のとき、要害山・宮ノ城にたてこもった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城(鯉城)二の丸御番をつとめた。
城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残している。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまった。
「平原・岩原、この二墟を茶臼山と称す」と芸藩通志に書かれている「岩原城跡」は、旭山奥に今もあり、「ふるじょう」と呼ばれている。
当城跡背後の大茶臼は「立石城跡」であり、さらに己斐峠をおいて左方に「柚ノ木城跡」が見られる。
茶臼山は己斐の要の位置を占め、且つ昔は東・南側とも山麓まで海が迫っていた。
城跡山頂に立つ時、「平原城は大田川口を扼す海城的性格をもった山城である」という立地条件が、よく理解出来る。
この城跡を身近かな文化財として、大切にしたい。
なお、推定であるが、往時の「船溜り」は現在の中一丁目の「仲の御前社」附近にあったであろう。
東部の桂原天神は古くから祀られていたが、寛延元年(1748)旭山に遷され、三国屋天神(知新集)、更に後年、己斐天神とも呼ばれ、有名であった。
昭和58年9月吉日 撰文 己斐の歴史研究会
戦国時代当時は眼下は海であった。
下を臨む。
桂原天神跡。
しょうの天神跡。
瓦の残骸もある。
平原城の矢竹。
位置関係
余湖図【己斐新城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【岩原城・平原城】
城の概要
最高所の主郭部分は、北側に土塁をもつ郭と、浅い堀切を挟んで西にある郭によって構成されており、さらに北、東、南西、南~東の各支尾根に郭を配している。
これらの郭は相互に連絡しており、主郭部分を囲い込むようになっている。
堀切は東へ延びる尾根に3条設けられている。
また、西へ延びる尾根には幅の狭い平坦面と竪堀が見られるが、これは堀切になるものと思われる。
城主は己斐氏と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
己斐城
己斐城は、広島湾頭西部の丘陵南端部に所在する。
草津城の北東約三㎞に位置し、東下を山陽道が通る眺望のよい古来からの交通の要衝である。
城主己斐氏は、厳島神領衆の出身で、その動静はあまりわかっていない。
長禄元年(一四五七)、武田方として大内氏の攻撃に遭い、落城して守将の戸坂信成以下が戦死している。
永正十二年(一五一五)には、武田元繁指揮下の熊谷・ 飯田。遠藤らの諸兵三千騎に攻められているが、大内義興の命を受けた毛利興元が後詰めとして有田城を攻撃し、武田氏勢力圏の背後を突いて己斐城を救っている。
己斐豊後守直之は厳島合戦の際は、毛利氏の配下として草津城 の新里氏と共に宮尾城(佐伯郡宮島町)に入っている。
城は、南西に延びる丘陵の後背部を、三か所にわたって掘り切り、その先端部を利用している。
郭は、最高所の本丸相当郭を中心に、同心円状に十数か所 配置されている。
本丸は、幅一五m×長さ二五mの大きさで二段に分けられている。
前方には空堀を挟んで幅一一m×長さ一八mの郭、後方には幅二三m× 長さ二三mの郭があり、その西端の一角には小社が祀ってある。
本城の西北約二畑の大茶臼山(標高四一三m)には、詰の城が設けられ、己斐 氏の一族が拠ったというが、現在はテレビ塔が建てられている。
『日本城郭大系』13より引用。
己斐城跡 現西区己斐上四丁目
小茶臼山(二〇〇・二メートル)山頂にあった小茶臼山城と北方へ谷一つを隔てた茶臼山にあった大茶臼山城をいう。
小茶臼山城は麓を通る旧山陽道を押え、広島湾西部およ び己斐川(現太田川放水路)河口を拒する要衝の地に位置する。
大茶臼山城は単に茶臼山城とも称され、小茶臼山城 の詰城であった。
「閥閲録」所収下瀬七兵衛家文書の同家家譜に康正三年 (一四五七)五月一三日の記事として「己斐城」、「房顕覚書」の永正一二年(五一五)の記事に「己斐ノ要害」、「閥閱録」所収草苅太郎左衛門家文書の永禄三年(一五六〇)の 軍忠状に「許斐要害」などとみえる。
寛文三年(一六六三) の「芸備国郡志」によれば、この頃「次郎城」とよばれ 楠木正成の築城といわれていたという。
「国郡志下調書出 帳」では小茶臼山城を「平原城」、大茶臼由城を「岩原城」と記す。
室町時代から戦国時代を通じて銀山城(跡地は現安佐南 区)を拠点とする武田氏と、桜尾城(跡地は現佐伯郡廿日市町)を拠点とする厳島社神主藤原氏の間で度々己斐城をめぐって争奪戦が繰返された。
長禄元年(一四五七)以前には 武田氏の支城であったらしく、厳島社神主藤原氏から援 軍の要請を受けた大内教弘が同年五月一二日に己斐城を攻め、武田方の城番戸坂信成が戦死し落城(大内氏実録)。
大内方の下瀬加賀守頼綱が城の麓で討死している(「閥閲録」所収下瀬七兵衛家文書)。
その後永正一二年には武田元繁が己斐城を攻撃したが落城せず、同一七年に大内氏は内藤孫六を城番にすえ直接支配に乗出している(房顕覚書)。
また欠年三月一九日付の弥富依重軍忠状(今仁文書)によれば、大永元年(一五二一)から同三年にかけて依重が己斐城番を勤めている。
「房顕覚書」によると、同三年には大内氏からの自立を図った友田(藤原)興藤が己斐城を攻め、大内氏の城番内藤氏を追下している。天文二三年(一五五四) には厳島社神領衆の己斐氏が在城(「閣閱録」所収下瀬七兵衛 家文書)、同年六月一一日付の毛利元就同隆元連署感状 (「堀立家証文写」山口県文書館蔵)によれば、同年五月一二日 に毛利氏によって落城した。
小茶臼山城は頂上に本丸を取巻いて五つの郭があったらしく、西側と北側の郭には望楼の柱礎らしい石組が残る。
北側の郭から搦手に抜ける裏木戸には大きな石組が設けられ、本丸から東方少し下った所には馬返しの壇があり、東北に向かって別郭が続いていた。
南側に突出た中腹の峰には出丸が設けられた。
現在は周辺に大規模な団地が造成され、大茶臼山城跡とともに城跡の破壊が進んでいる。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
長禄元年(1457):大内教弘が己斐城を攻めて城代であった戸坂信成が戦死する。
永正12年(1515):武田元繁が己斐城を攻撃したが落城しなかった。
永正17年(1520):大内氏が城代を内藤孫六にすえ直接支配する。
大永元年(1521):弥富依重が3年間城代を勤める。
大永3年(1523):大内方からの独立を図ろうとした友田興藤が己斐城を攻めて、内藤氏を追い出す。
天文23年(1554):厳島社神領衆の己斐氏が在城する、5月に毛利元就に攻められて落城する(己斐氏は毛利の支配下になる)
天正19年(1591):この頃の所領として己斐理右衛門(興員)が1022.325石を賜っている。
また、広島城の本丸付近に館を構えている。
城主家系図
己斐直之の墓
安佐北区白木町三田の山中にある。
城主石高
己斐理右衛門(興員)1022.325石
【内訳】
829.765石 周防 都濃
192.560石 周防 熊毛
所感
●己斐城の城主は己斐氏であったが、厳島神領衆として大内氏、武田氏に翻弄されている。
●城代が武田方の戸坂氏や大内方の内藤氏だったということは、己斐氏は城主としての機能を果たしていなかったのか。
●己斐直之の子孫は白木に行ったが、興員の子孫はそのまま現地に残り関ケ原でも萩に行かなかった、また苗字を浜に変更している。
関連URL
毛利氏が陶氏に叛旗を翻した時に僅かな期間で攻め取った城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/16