城データ
城名:宮尾城(みやのおじょう)
別名:宮ノ尾城、要害山城
標高:30m
比高:30m
築城年:天文23年(1554)から弘治元年(1555)頃。
城主:毛利氏、城代として己斐直之などが入っている。
場所:広島県廿日市市宮島町(要害山)
北緯:東経:34.300531/132.322299
攻城記
宮尾城全景。
フェリー桟橋の対面の山を登る。
小山であるが、海からなので比高は高い。
正面の山が宮尾城本丸あたり。
毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡
宮尾城跡(要害山)
1555年(弘治元年)5月、毛利元就は陶晴賢を討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とし、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えた。
この城は、数個の(空白)分かれた山城であるが、海上に突出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も併せ持っていた。
同年9月、晴賢は2万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、300余の城兵はよく守り持ちこたえた。
元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させた。
正面の五重塔辺りが陶晴賢軍のいた場所。
周辺部。
堀切部分。
堀切から東部分。
改変されているが、おそらくここも曲輪跡だと思われる。
当時の石積みかは不明。
当時の推定海岸線
余湖図【宮尾城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【宮尾城】
1825年当時でも古城の前は海であった。
城の概要
勢神社のある丘とその北東にある丘の二つから成りたっており,堀切によって両者は分断されている。
四方とも急傾斜であり,南西の丘には郭5,北東の丘には帯郭も含め郭10をもって構成されている。
この城の中心は北東の郭群であろう。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
宮尾城
厳島の中央にそびえる瀰山の尾根が北西に延びた舌状台地の先端を掘り切っ て築かれた城である。
現在は城の西側は埋め立てられているが、かつては城際 まで海が迫り、海賊城の性格を持っていた。
この城は弘治元年に築かれたが、その時期は西中国に変動が起こる前夜であ った。
それまで中国・九州に勢力を張っていた大内氏の当主義隆が、天文二十年(一五五一)に家臣の陶隆房(晴賢・全姜)に殺されたことによって、 そのきざしが見え始める。
当初、毛利氏は、陶氏の一味として行動していたが、陶晴賢が、佐西郡一帯を掌中に収めた同じ時期に、毛利元就も行動を起こし、広島湾 への押えであった銀山城を奪い、さらに西条盆地の大内勢力を駆逐した。
このことが両者の申し合わせによったことは、陶晴賢から備後の国衆である馬屋原氏への書状からもうかがえる。
しかも、毛利氏の行動は、やがて陶氏と対決することを予想して進められていたようである。
天文二十二年十月に大内義隆の姉婿である石見国津和野城主吉見正頼が義降の弔い合戦と称して挙兵し、毛利元就に援軍を求めてきた。
また一方、陶晴賢 からも毛利氏に吉見討伐の出陣を迫ってきた。
毛利氏では旗色を鮮明にせざるをえなくなり、翌二十三年五月十二日、意を決した元就は、突然兵を起し、そ の日のうちに大内の安芸攻略の拠点となっていた己斐・草津・桜尾などの城や、 さらに厳島をもその支配下に置き、陶氏との対決の姿勢を示したのである。
っこの元就の動きが、陶晴賢にとって青天の霹靂であったろうことは、元就・隆元 すが書状においてみずから「現形(裏切り)」といっていることから推察される。
その後、元就は陶氏との対決をより有利に進めるために広島湾内の能美島の 能美氏・倉橋島の多賀谷氏・矢野(広島市矢野町)の野間氏など陶勢力を一掃し、 また背後の山陰の尼子氏の勢力を弱めるため、調略で新宮党の勢力を除いた。
さらに大内氏の傀儡当主大内義長の実家である九州の大友義鎮とも誼みを通じ、 陶勢力をその背後から脅かすために策謀している。
また、陶氏の安芸進出を阻むため、厳島に宮尾城を築くと共に、毛利氏の前線基地である桜尾城の整備、 草津城・仁保城の充実を 急いだ。
弘治元年六月に 宮尾城が竣工され、陶軍 を迎え撃つための広島湾 要塞網がほぼできあがった。
そして、宮尾城には 厳島神領衆の己斐豊後守 や新里掃部介ら三百余名 の兵が立て籠もり、陶軍 の来襲を待ったのである。
弘治元年九月二十一日、 守賀島・桑原・浅海氏などの警固船に守られて宮島に渡った陶軍約二万人 は、厳島を安芸攻略の拠点にするため宮尾城をそ の日に攻略し、太田川河口の仁保城をも奪い取り、毛利氏の本拠吉田郡山城へいっきょに迫る意図であ った。
しかし、わずか三百余の軍が立て籠もる宮尾城だったが、頑強に抵抗し、逆 木の一重さえも破られないありさまで、陶軍は、十二年前に伝来された新兵器 の鉄砲六・七梃をも用いて激しく攻め立てたが、落城しないばかりか城方の逆 襲に遭い、玉薬を奪われる始末であった。
陶方は、人夫数千人を動員し、城の掘り崩しを図ったが、同年九月二十六日に能島・来島・因島の三島村上氏が毛 利方に味方するに及んで宮尾城においてはますますその勢い盛んで、十月一日 未明における毛利勢決死の奇襲で陶軍はほとんど壊滅した。
宮尾城は十日余りの籠城戦を耐え抜き、落城を免れたのである。
島内には、この合戦にまつわるいくつかの遺跡があり、当時、陶晴賢が 本陣を置いたといわれる「塔の岡」には、五重塔(重要文化財)と豊臣秀吉が造築した豊国神社本殿(同)が建ち、「塔の岡」の木の間越しに宮尾城跡・有の浦 一帯を眺めると、往時の激しい攻防のさまがしのばれる。
転じて博奕の尾、瀰山の龍ヶ馬場を眺めると、毛利勢の決死の攻撃と追い詰められた陶方の部将弘中隆兼の勇戦が目に浮かぶようだ。
それらの峰ヶ浦に毛利勢が上陸して勝利をめざし、そこから数㎞南方の青海苔浦陶では晴賢がその生涯を閉じたのである。
彼の生死・勝敗に宮尾城が大きな影響を与えていたであろうことは、充分考えられる。
宮尾城をめぐる勝敗はその後に 大きく影響した。すなわち、毛利氏の中国地方征覇は、この小城の籠城戦を勝ち抜いたことを基点としているといっても過言ではない。
しかし、現在の宮尾城は、そうした激烈な合戦を知らぬげに、ひっそりと静まりかえった小さな丘にかえっている。
標高三〇mばかりの丘に登ると、五段ばかりの郭が残り、堀切を越えた北方に六段の郭が残っている。
堀切の北は宮尾城というよりも、宮尾城攻略のための陶方の向城の跡であろうか。
狭い堀切から北を眺め、当時の激戦の様子が充分しのばれるのである。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
●弘治元年(1555)年に陶晴賢と戦になる。
所感
●桟橋から目の前の山で案内もありすぐに本丸まで到着できる。
●看板のある場所とは反対側にも曲輪跡があり、この2か所で300人の兵が駐屯していたものと思われる。
●看板あたりから五重塔をみればその近さが分かる。
●城代の己斐氏(元己斐城城主)や新里氏(元草津城城主)は毛利元就の厳島攻略戦の時に降伏した武将でそのまま宮尾城の城主を任された。
●後に己斐氏と新里氏は婚姻関係を結ぶ。
関連URL
1日で制圧された桜尾城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/16