城データ
城名:本明城(ほんみょうじょう)
別名:乙明城、音明城、福屋城
標高:417m
比高:280m
築城年:天福2年(1234)
城主:福屋氏
場所:島根県江津市有福温泉津町本明
北緯:東経:34.923904/132.211662
攻城記
道なりに進むとこのような看板がありそこから奥の道へ進む。
民家の裏に登城口がある。
攻城開始。
道なりに進む。
途中に鳥居がある(明治時代初期の奉献があった)
鳥居からは一気に急になってくる。
途中社のようなものがある。
やっと尾根に到着(本丸はこの先)
逆の方の曲輪へ進む(ここは東の丸)
どんどん降りていく。
馬の段付近。
本丸頂上付近。
景色が良い。
遠く日本海が見える。
本丸にある金毘羅神社。
細長い曲輪だと分かる。
江津市指定 史跡及び名勝
本明城跡
一 この城跡は、江津市文化財保護条例第九条第一項の規定により昭和55年7月14日付けをもって江津市史跡及び名勝に指定されました。
一 尾根を境に南側は、那賀郡金城町乙明です、時代により福屋城・乙明(音明)城などの別称があります。
一 福屋氏の最後の居城の形態(縄張り)としての郭(平坦面)をよく残しています。
一 「東の丸」からは、炭化米や大豆が出土したことがあります。この山の北麓の福田の地には、福田八幡宮がありこの丘陵は、福屋氏の城跡と考えられます。
一 福屋氏がこの地を離れた後は、毛利氏の支配に入りました。
一 主郭付近の標高400メートル上のヤマモモの木は、県内最高位の高さにあると思われます。
一 四季を通じて様々な趣の山中、頂上からは日本海や中国山地を望む風光明媚の地です。
規模 長軸約1000メートル
比高 長軸約40メートル 短軸約80メートル
江津市教育委員会
余湖図【本明城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
福屋氏後期の拠城とされる。
家古屋城から移ったことに関しては諸説があるが、日本海沿岸の水上交通を押さえるのに都合の良い地に移ったのではないだろうか。
毛利氏に抵抗した福屋氏は、永禄5年(1562)尼子氏を頼って逃亡したという。
なお、福屋氏は城の東北麓の現在福田人幡宮のある丘陵に居住し、福田城と称したと伝えられる。
該地には、「土居」「城ノ内」の地名が残っている。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
本明城
本明城は、江津市と那賀郡旭町との境界となっている本明山の山頂にあった。
天福二年(一二三四)、益田兼高の三男兼広は阿刀・福屋の地を得て福屋氏を立 てて独立し、この地に本明城を築いて居城としていたが、南北朝時代には南朝方に属した。
暦応五年(興国三、一三四二)二月の上野頼兼の花押のある久利赤波公房軍忠状には「去年八月七日御発行福屋城之間(中略)散々合戦追落せしめ 「徒等畢」「久利家文書」とあり、この時、福屋氏は新田義氏らと共に北朝勢と戦い、上野頼兼らの攻撃を受けて落城した。
大永二年(一五二二)には、出雲の尼子経久が石見に侵入し福屋城を攻めた。
ついで永禄元年(一五五八)、毛利元就が川本温湯城の小笠原氏を攻撃するにあたっては福屋氏は毛利氏に従っているが、小笠原長雄が毛利氏に降り、その結果、小笠原氏は石見銀山と江の川以南の小笠原領を割き、代わりに羽住(波積)・ 伊田(井田)の地が小笠原氏に与えられた。
この地はもともと福屋氏の所領であ ったから、それを不満として、以後、福屋氏は尼子氏と結んで毛利氏を離れた。
そして同四年十一月、福屋隆兼は吉川経安・都治隆行らの籠る物不言城を攻めたため毛利氏の反撃を受け、翌五年二月、川(河)上の松山城、福屋の本城本明 城も落城し、福屋氏はここに滅亡した。
『日本城郭大系』14より引用。
本明城跡 江津市有福温泉町本明、那賀郡金城町入野
標高四一七メートルの本明山山頂に築かれた山城。
乙明城ともいう。
本明山の北麓に位置する阿刀別符は元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に 藤原(益田)兼栄・兼高父子の所領としてみえ、貞応二年 (一二二三)三月日の石見国惣田数注文には「ふくや知行」 として「あと七丁一反半」がみえる。
福屋氏は三隅氏・周布氏と並ぶ益田氏の有力庶子家で、阿刀別符を含 めた那賀郡中央部から邑智郡南西部にかけての山間部の公領を基盤として、在地領主化していったことがうかが える。
南北朝期になると、福屋氏は南朝方あるいは足利直冬方として転戦する。
暦応四年(一三四一)八月には三和田川で上野頼兼の率いる北朝方と戦って(同五年二月日「越生光氏軍忠状」閥閱録)敗れ、福屋城に籠城した(同五年二月九 日「上野頼兼感状」久利文書など)。
福屋氏の本城は本明城と現那賀郡旭町の家古屋城で、前期の本拠地が家古屋城、 後期が本明城であったといわれるが、福屋城がいずれを さすのかは不明。
なお三和田川は本明城と家古屋城の中間の三又川と推定される。
福屋氏は隆兼が毛利元就に反 旗を翻したため、永禄五年(一五六二)二月に滅亡させられるが、その際に毛利方の軍勢を迎え撃ったのは河上郷の松山城においてであった(同月一三日「小笠原長雄感状」清水文書など)。
松山城が落城すると福屋隆兼は本明城から逐電し、浜田湊から尼子氏を頼って出雲に落ちたといわれ るが確証はない。
本明城は主郭から北東方向と南西方向にほぼ一直線に 延びるやせ尾根のピークを削平し曲輪としている。
全長約九〇〇メートルにわたる長大な城域を占めるが、高低差に応じて小さな曲輪を配列しただけで、縄張りに求心性は認められない。
また一部に確認される土塁や堀切も 不十分なものでしかない。
地取りや縄張りにしても普請の面でも古式を感じさせる。
畝状竪堀群を配置し、横矢をきかせた松山城の縄張りにははるかに及ばない。
『島根県の地名』より引用。
城の歴史
天福2年(1234):益田兼高の三男である兼広がこの地に城を築き、苗字を福屋とする。
南北朝時代:南朝に属す。
暦応5年(1342):福屋氏は新田義氏らと共に北朝勢と戦い、上野頼兼らの攻撃を受けて落城する。
大永2年(1522):尼子経久が石見に侵入し福屋城を攻める。
永禄元年(1558):毛利元就が川本の温湯城の小笠原氏を攻める、その時に毛利氏に従う、この戦で小笠原氏が降伏し毛利氏により福屋氏の所領の一部が小笠原氏に割譲され不満に思う。
永禄5年(1562):福屋隆兼が福光城を攻めるが撃退され、反撃で松山城を攻められ落城する、この時本明城にいた隆兼も尼子を頼り逃れここに本明城も落城する。
城主家系図
所感
●城の造りは簡素で、南北朝時代の雰囲気を受ける。
●土塁、堀切などの遺構もあるが目立たない。
●多く曲輪群が並列的に並ばれているし、本丸も特段広くもなく、求心性にかける。
●遠く日本海を臨む景色は絶景で、登山としてもお勧めできる山城。
関連URL
毛利元就の逆襲で落城した福屋氏の城。
小笠原氏の所領問題で毛利に叛旗を翻して攻め込んだ城、もとは福屋一族である福光氏の城であった。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『石見の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/10