城データ

城名:不言城(ふげんじょう)

別名:物不言城(ものいわずじょう)、福光城

標高:100m

比高:90m

築城年:戦国時代

城主:福光氏、吉川氏

場所:島根県大田市温泉津町福光

北緯:東経:35.068323/132.346439

不言城はここ

 

 

攻城記

国道にある看板。

不言城(福光城)址 
不言城は、当初福光氏の居城であったが、永禄2年(1559)石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えた。

これを機に、吉川経安は嘉暦3年(1328)より200年にわたって拠点としていた温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)から、不言城に居を移し、改修して居城とした。

本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っており、本格的な山城であったことがうかがえる。

古今の名将の一人として名をはせた不言城主・吉川経家は、9代目経安の子である。経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城。秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃した。

慶長6年(1601)、経家の子・経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、不言城はその歴史を閉じた。

 

標識発見。

目の前の山に登っていく。

攻城開始。

麓の居館跡か。

かなり広い空間が広がる。

番所跡、

三の丸跡。

三の丸から見た風景。

二の丸。

本丸。

一応下草刈りもされている。

本丸からさらに進んでいく(本丸より奥へ一旦降りて更に尾根沿いを進む) 馬洗池(井戸であろう)がある。

更に進むと上の丸跡がある。

ここが最高所になる。

この石はこの場所にあった春日大明神の跡。

上の丸に行く途中に石鳥居の残骸があった。

上の丸の先に進んだところに堀切がある。

 

祈願寺【楞厳寺】

吉川経家の供養塔がある

 

菩提寺【浄光寺】

石見吉川9代目である吉川経安のお墓。

慶長5年といえば関ケ原の戦いの年。

 

余湖図【物不言城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

全山にわたって岩肌が露出しており、天然の要害である。

 

主郭東側に土塁を築いてこの方面に備えているが、南側尾根筋には堀切等の防御施設は認められない。

 

この尾根続きに主城が存在するとされているが確認できなかった。主郭西方に石垣が残るが、近世の改修らしい。

 

山麓に残る館は普請が活発になされている。また、西隣りの尾根にも堀切が認められる。

 

弘治2年(1556)に吉川経安が築いたとされるのはこの館かもしれないが、別に福光氏の名も伝えられている。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

物不言城

物不言城は南に本陣山などの連山が続き、山容は急峻で断崖が多く、福光川 が山緒を迂回しており、また、東には温泉津港をひかえ、南は井田を経て邑智郡 方面へ通じる要持にあった。

 

山頂に本丸・二の丸・三の丸があるが、規模は合わせて約一二〇〇mである。

 

吉川元春が弘治二年(一五五六)に石見を経略したのち、吉川分家の吉川経安 が福光湊を毛利元就から与えられて井田殿村城から当地に移り、永禄二年(一 五五九)、当城を築城した。

 

そして同四年、松山城の福屋隆兼が所領について毛利氏を怨み、ついに毛利氏に背いて、毛利氏に属する当城の吉川経安を攻めたが、経安・経家父子の善戦により撃退された。

 

そして天正二年(一五七四)に経 安は隠居して子の経家に相続させたが、毛利氏は織田軍の中国探題羽柴秀吉の西進に対抗するため、経家を鳥取城主に抜擢した。

 

しかし天正九年、秀吉の攻囲に会い、善戦及ばず経家は城内で自害した。

 

当城地は引き続き吉川氏の領有 であったが、慶長五年(一六〇〇)、毛利氏の後退に伴って吉川氏もそれに従い廃城となった。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

不言城跡 現温泉津町福波大字福光

戦国期の石見吉川氏の居城跡。

 

もと周布氏庶流福光氏が拠った福光城(福光要害)を改修した山城。

 

福光城は福光氏が永禄二年(一五五九)頃没落したのに伴って毛利元就から吉川経安に預けられたようである(同年九月六日「毛利元 就・同隆元連署知行充行状写」石見吉川家文書など)。

 

同四年一 一月六日から約一〇日間、同城に対して毛利氏に反した福屋氏が攻撃した。

 

あらかじめ福屋氏の計略を察知した毛利氏側では、一〇月二二日に冷泉元豊と桂元親両名に 「福光要害」の番衆を命じて攻撃に備え(「毛利隆元書状」閥 閲録)、また吉川経安をはじめ都治隆行・竹内方督や都治氏の被官笠井源太郎・森雅楽助などの活躍もあってこれ を撃退した(永禄五年四月七日「都治隆行知行充行状」森家文書 など)。

 

笠井氏は鉄砲によって敵数人を討伏せており(一二 月二三日「都治隆行感状」笠井家旧蔵文書など)、現在確認でき る石見における鉄砲使用の最初の事例。

 

同五年三月二六 日吉川経安は元就から改めて福光郷内の本分・湊などを 与えられ(毛利元就・同隆元・吉川元春連署充行状写」石見吉川 家文書)、内陸部の津淵村・殿村から福光へと拠点を移し、 同時に福光城にも大規模な修復を加えたと考えられる。

 

それまで標高一九四メートルの本陣丸を詰の丸とし、久根平を本城としていたのを、久根平から連なる丘陵の先 端の小田ヶ平に本丸を移し、二の丸・三の丸を設けて麓 に屋形(奥御殿)を構えたという。

 

かつての福光城とは区別 し、この改修以後の城を不言城と称している。

 

関ヶ原合 戦後、石見吉川氏の転封により廃城となった。

 

『島根県の地名』より引用。

 

城の歴史

戦国時代に福光氏によって築城されたと云われる。

 

永禄2年(1559):毛利元就が吉川経安に福光氏の所領を与え、殿村城から居城を移した。

 

永禄4年(1561):本明城の福屋隆兼が毛利元就に叛いて挙兵し、福光城の吉川氏を攻めるが撃退する。

 

天正9年(1581):豊臣秀吉が鳥取城を攻めた時に毛利軍(吉川元春)に支援を要請、これに応じて吉川経安の子、吉川経家が鳥取城へと派遣される、しかし、奮戦虚しく、兵糧攻めにて経家は自刃して城を開城する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて萩に移封するが、吉川経安は老齢の為この地にとどまる、同年10月21日に死去。

 

 

永禄2年(1559)吉川経安が福光城に入る経緯について。

①毛利元就は川本を支配している小笠原長雄が尼子方であった為、その本拠地である温湯城を攻めて降伏させる。

 

②この時江の川の南の地は全て没収、そのかわり福屋隆兼の領地を代替地としてあてがった。

 

福屋氏は井田・波積を没収され、邇摩郡で代地を給与されることとなる。

 

③これに黙っていないのが福屋氏、そもそも領地が隣で度々この2勢力は争っていたにも関わらず、毛利が勝手に小笠原に自分の土地をあてがわれた事に不信感を持つ。

 

④永禄4年(1561)に毛利が九州遠征に行っている間に福屋氏は尼子方につき反旗を翻す。

 

⑤福屋隆兼は尼の湯惟宗と一緒に物不言城を5000の兵で攻める(福屋氏2000人+湯氏3000人)が吉川経安は鉄砲を使い撃退した。

 

⑥その後、弟の隆任が治めていた松本城も陥落して尼子義久を頼るが拒否されて結局、近畿の松永氏を頼ることになる。

 

⑦最終的には蜂須賀家の家臣となる。

 

 

城主家系図

福光氏は福屋氏の庶流にあたる。

 

福屋兼香が1350年頃の人物なの福光兼宗も同じ位の人物だと思われる。

 

福屋氏が1550年頃に吉川氏に城を明け渡したとなると、兼宗よりも5~7世代後の人物となる。

 

吉川元春とも遠い親戚になる。

 

福屋隆兼が1561年に城を攻めているが、実は毛利元就とは義理の兄弟であった。

 

所感

●城は地元のボランティアの方が整備されている。

 

●ボランティアの方に聞いたら大内氏が毛利氏と共に出雲征伐の折逆に負けて逃げている最中にこの付近で元就の家臣である渡辺通が影武者になり国道9号線沿いを逃げ、元就はここから南の大森銀山方面に逃げたらしい(渡辺通は討死)

 

●この時逃げている最中、川本の小笠原氏はスルーして見逃してくれたそうだ。

 

●島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』では本丸までの縄張り図しかないがその奥にも馬洗池や上の丸などがある。

 

 

関連URL

 

 

参考URL

城郭放浪記(石見福光城)

西国の山城(福光城)

福光城 -石見の城ー

益田氏系図再考 久留島典子

吉川経安(ウッキペディア)

吉川経家(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『石見の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/09

 

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