城データ
城名:丸茂城(まるもじょう)
別名:無し
標高:270m
比高:50m
築城年:鎌倉時代
城主:丸茂氏
場所:島根県益田市美都町丸茂
北緯:東経:34.672909/132.003705
攻城記
麓の看板。
分かりやすい縄張り図。
本丸はかなりぐるっと回らないといけない。
馬場跡。
ここも曲輪跡か。
三重堀切の場所まで到着。
堀切は急斜面で往時はかなり深かったと想像できる。
本丸に到着。
本丸から下を臨むと曲輪があるので行ってみる。
二の丸。
二の丸から本丸を臨む。
更に下を臨む。
三の丸。
しっかりと築城されている。
余湖図【丸茂城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
丸茂城跡
昭和56年3月24日指定
丸茂城は、金城溢と馬頭溢に挟まれた丘陵上に築かれた中世の山城です。
益田から戸河内に至る都茂往還と弥栄から日原に至る津和野奥筋径還をおさえる経済・軍事の要衝に位置しています。
築城時期は定かではありませんが、七尾城の南方の守りのため鎌倉時代中期に丸茂氏初代兼忠によって築かれたと伝えられています。
兼忠は益田市域を拠点に勢力を誇った益田氏の5代益田兼季の第4子で、丸茂地頭に任ぜられて丸茂氏を称するようになりました。
丸茂郷の領有は、その後安富氏へ移り、戦国時代には益田氏と三隅氏との間で激しい争奪戦が繰り返されました。
丸茂城は、三隅氏に対峙する軍事拠点として常に最前線にあり続け、その緊張状態の中で数度の改修が行われています。
南から北に突出した尾根を堀切で切断して城域とし、主郭の周囲には連続縦堀を備えています。
比高が約50mと山城としては比較的低いものの、尾根の両側はともに急傾斜で、とくに金城溢側は急峻となっています。
北側の堀切以北に続く曲輪(削平地)は、築城時の様相をとどめていると考えられ、井戸や士塁が残っています。
三重堀切や連続縦堀を多用するなど益田氏系統の城郭の特徴が状態よく残り、美都地域における代表的な中世の山城跡として貴重です。
平成25年1月 益田市教育委員会
看板より
丸茂城
【城 史】
丸茂の地名は、十二世紀末に「丸毛別符」が益田兼栄 の所領として登場するのが初見である。
石見国衙の在庁官人藤原(益田)氏が美濃郡都茂郷の一部を開発して獲得したものと推定される。
丸毛氏の初代は益田兼季の四男の兼忠とされているが、益田氏庶子家の丸茂氏は鎌倉中期に断絶し、以後十五世紀前半まで周布氏一族の安富氏が継承して、安富系丸毛氏が安富郷とともに丸毛別符を知行する体制が続いた。
その後、益田氏と三隅氏の対立が、その境界に位置す る津毛・疋見・丸毛の三ヶ郷をめぐって激化し、三隅氏が実質的にこの三ヶ郷を支配し続けた。
しかし、ほぼ一 世紀後の享禄五年(一五三二)には、三隅興兼が道川・ 界川とともに疋見・丸毛を惣領家に引き渡すことに同意したので、当地域は益田氏の所領として確定された。
このように、地理的位置と歴史的変遷から、丸茂原の周辺はたびたび軍事的な緊張下に置かれたようである。
南北朝期の康永二年(一三四三)二月十六日の夜には、丸毛彦三郎道元の拠る丸茂城に、三浦与一らの南朝方が攻め寄せた。
丸茂城方は防戦に努めたが、道元の子息彦九郎兼弘は右の上腕に突き疵、右腕には切り疵、左 の股にも突き疵を被ったという。
二年前の暦応四年(一三四一)の合戦でも、配下の旗指行部三郎が討ち死にするという犠牲を払っていたが、夜間の奇襲に不意を突か 槍や刀で切りむすんでようやく撃退したという戦いの有様がうかがわれる。
『石見の山城』より引用。
城の歴史
暦応4年(1341):付近で合戦があり配下の旗指行部三郎が討ち死するがこの時は撃退する。
康永2年(1343):北朝の丸茂教元の時、南朝の三隅兼連によって攻められ落城したという。
城主家系図
丸毛氏は丸茂氏とも言われている。
丸毛頼兼の子孫は織田家に仕えたが、どこで仕えたか不明。
所感
●城は小ぶりながら精巧なつくりで三重の堀切など見どころあり。
●本丸にいくには、馬場というところを歩き、遠回りをしてから行くこととなる。
●本丸だけでなく、是非二の丸、三の丸も確認したい。
関連URL
主家である益田氏の城。
近隣の城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『石見の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/10