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城データ

城名:鳶ヶ巣城

別名:無し

標高:281m

比高:260m

築城年:16世紀前半には築城されたと思われるが、本格的には永録4年(1561)毛利氏により築城されたと伝わる。

城主:宍道氏、尼子氏

場所:島根県出雲市西林木町(鳶ヶ巣山)

北緯:東経:35.409332/132.773730

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

攻城記

鳶ヶ巣城。

麓には石碑もある。

攻城開始。。

西3郭。

西2郭。

西3郭。

眺望もよく、ここに城を築く意味が分かる。

南1郭。

南2郭。

東2郭。

土塁跡。

北2郭。

主郭。

宍道政慶の碑がある。

東1郭。

 

駐車場附近の看板。

 

主郭看板

“鳶が巣城の歴史” 
我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、鳶が巣城は大きな役割を果たしていました。


1542
年(天文11年)、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。

 

しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。

 

このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。

 

それから20年後の1561年(永禄4年)、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました

翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶(まさよし)父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。

 

4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。

 

こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。

 

宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。

 

余湖図【鳶ヶ巣城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

毛利元就が、出雲国の平野部へ侵入して最初に築いた陣城で、標高281メートルの主郭を中心に、四方へ伸びる稜線上に郭を配した放射状連郭式の山城である。

 

この山頂郭群とは別に、標高50メートルの南方山麓に広大な面積を有する山麓郭群が存在する。

 

これは、毛利氏にとって雲芸攻防戦が有利に展開した結果、当城の機能が最前線の陣城から繋ぎの城に変化した結果、付け加えられた駐屯空間であろう。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

鳶ヶ巣城

鳶ケ巣城は出雲平野の北方にそびえる北山連峰の中央部、ほぼ独立した鳶ヶ巣山に築かれていた。

 

標高二八五mの山頂からは、出雲平野や多くの城が築かれていた南方の山々をはじめ、遠く日本海や宍道湖まで見渡すことができる。

 

また、中世においては、眼下に当時は西流していた斐伊川が流れ、また一大勢力を有していた鰐淵寺への参道が通っていたのである。

『雲陽軍実記』によれば、当城は永禄四年(一五六一)、毛利元就によって尼子氏政略の拠点として築城されたといわれる。

 

恐らくこの地が交通・軍事上の要 衡の地であり、特に神戸水海・宍道湖と当城の裏の日本海とを結ぶこの一帯を 押さえることが、水軍をもつ毛利氏にとっては不可欠であったものと思われる。

 

出雲平定後、毛利氏は大野・大垣両氏に当城を守らせたといわれるが、『雲陽誌」は古老の伝えとして、宍道高慶・政慶が城主であったといい、天正十八年(一五九〇)に落城して両人は安芸国へ引き移ったと記している。

 

いずれにしても、当城は毛利氏の支配の終焉と共に十六世紀末にはその機能を失い、廃城になったものと思われる。

 

遺構としては、東西二〇m×南北一〇mの小さな主郭を中心に、四方に延び る尾根の上にそれぞれ二か所に郭が配されている。

 

これらの郭の多くには高さ 一~二m、幅二~五前の土塁が設けられ、郭の規模も北二郭の東西一六m×南五七mをはじめ比較的大規模である。

 

しかし、郭以外の施設は乏しく堀切が一か所と井戸が二つほどあるのみで、比較的短期間しか使用されなかったことを示唆している。

 

一方、西側の山麓には宍道氏の菩提寺とされる臨済宗霊雲寺があり、また、 南麓の標高五〇mの山腹には東西二〇〇m×南北二〇~五〇mの平坦地が認められ、これらの場所は居館跡ではないかとも考えられる。

 

なお、城跡付近には「殿屋敷」「門前谷」「馬乗馬場」「二の倉」など城に因 んだ地名や古墓が多く散見される。

 

古墓のなかには地元で「大野塚」と呼ばれる宝庭印塔一基が含まれ、天正十年(一五八二)に当城内で宍道政慶によって謀殺された大野高成(松江市大野町一帯に勢力を有した豪族)の墓と伝えられる。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

天文12年(1543):大内氏の尼子征伐により宍道氏が大内氏に寝返るも敗退して、宍道氏も山口に逃げることとなる。

 

永禄4年(1561):毛利軍の尼子征伐により宍道隆慶と政慶親子が先陣を切って出雲に入り鳶ヶ巣城を奪還する。

 

元亀元年(1570):尼子再興軍を討伐する為に、毛利輝元らが入城して、ここを拠点に尼子方の城である高瀬城を攻撃する。

 

天正10年(1582):本宮山城主の大野高成と大垣秀清を城に招いて謀殺する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏改易し、宍道氏も萩に移動することとなり廃城となる。

 

城主家系図

城主石高

1591年頃の所領。

宍道五郎兵衛(政慶)

6174.837石 長門 阿武

 

所感

●宍道氏は尼子の配下であったが大内氏の出雲侵攻時に大内氏に寝返った、しかし結果は大内氏の大敗北で宍道氏もこの時に出雲から逃れることになる。

 

●宍道氏も総領家だけではなく庶家も多くあり一族全てが逃れたわけではない。

 

●城の遺構はしっかり残っている。

 

●麓には霊雲寺があり、この寺は宍道氏の菩提寺である。

 

●当初ここには宍道隆慶の屋敷があったが、息子の宍道政慶の代になってこの場所に父の寺を建てて自分は別の場所に居住を移した。

 

●宍道隆慶の戒名は霊雲寺殿前遠州である。

 

●宍道経慶の妻は佐波興連の女であるが三吉氏の家系図では三吉到高(ムネタカ)の娘が雲州宍道大炊助隆慶室とあるので継室か側室になったのかもしれない。

 

関連URL

【島根県】金山要害山城【松江市宍道町白石】

以前の本拠。

【島根県】宍道要害城【松江市宍道町宍道】

宍道一族の城。

 

参考URL

鳶ヶ巣城(ウッキペディア)

城郭放浪記(出雲鳶ヶ巣城)

西国の山城(鳶ヶ巣城)

武家家伝(宍道氏)

宍道隆慶(ウッキペディア)

宍道政慶(ウッキペディア)

宍道家系図

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『出雲の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2021/12/26

 

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