城データ
城名:若桜鬼ヶ城
別名:鬼ヶ城、若桜城
標高:446m
比高:230m
築城年:建仁年間(1200~04)
城主:矢部氏、尼子氏、毛利氏、山崎氏
場所:鳥取県八頭郡若桜町大字若桜
北緯:東経:35.336633/134.397992
攻城記
麓からみた若桜鬼ヶ城。
車で山頂部まで行けるので楽にいける城。
かなり立派な城。
馬場の方から進んでいく。
馬場も結構広い。
ホウヅキ段付近の石垣。
ホウヅキ段
破城の跡が分かる。
中世に迷い込んだ感じ。
国指定史跡若桜鬼ヶ城跡
(平成20年3月28日指定)
若桜鬼ヶ城は若桜の中心街の南側にそびえる鶴尾山一帯に築かれた中近世城郭です。
築城期は諸説あり不明ですが、中世期に若桜を治めていた在地領主・矢部氏によって築かれたと考えられています。
若桜鬼ヶ城は山腹遺構と山頂遺構に大別されます。
山腹遺構は竪堀や堀切が南北の尾根沿いに造られ、小規模な郭群を形成しています。
一方、山頂遺構は木下・山崎両氏の時代に石垣を伴った整備がなされ、廃城の際は石垣が人為的に崩された状態で残されており、一国一城令による破城の歴史を物語っています。
このように戦国期から近世初期にかけての山陰地方の国人領主の動向と同時期の城郭変遷を知る上での重要な遺構として、国の史跡に指定されています。
二の丸。
三の丸からは麓がはっきり分かる。
本丸、天守台に向かう。
こんな山の上に河原石がある。
道を左にいけば但馬方面、右に行けば播磨方面、交通の要所でもあった。
瓦の跡が往時を偲ばせる。
天守台は広い。
六角石垣
龍徳寺(山崎氏菩提寺)
山崎家盛の墓。
銀杏の木は家盛の子どもである家治が植えたと伝わる。
余湖図【若桜鬼ヶ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
標高452mの丘陵頂部から南・西・北西・北東の丘陵尾根に郭群を配し、北側山裾の山下の郭(居館)を設けている。
築城は南北朝期に遡るとされ、北側尾根の「古城」と呼ばれる郭群は戦国末期の様相を留める。
矢部氏。その後木下定堅により織豊期城郭として整備され、さらに山崎家盛・家治により若桜3万石の居城として山下の郭(居館)とともに整備されている。
織豊期城郭の主郭部は天守台を持つ本丸・二の丸・三の丸・ほおずき段・六角石垣などに高石垣を設けているが元和3(1617)年に山崎氏の備中成羽移封、因伯32万石池田氏の統治下で若桜鬼ヶ城は廃城となった。
織豊期城郭の姿を留めるとともに、石垣等を崩した城割りの痕跡を明瞭にとどめている。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
若桜城 若桜町若桜
若桜集落の南方、八東川・国道二九号(旧若桜往来・播州往来)の西にそびえる鶴尾山(約四四六メートル)の中腹から 山頂にかけてに所在する中世後期―近世初期の城。
中腹部に中世後期の、山頂部に近世初期の遺構がある。
同時代の史料には鬼城・鬼ヶ城と記されるが、のち若桜城・ 若桜鬼ヶ城などともよばれるようになった。
城が築かれた時期は不明だが、若桜郷を本拠とした矢部氏によって築造されたものと推定されている。
矢部氏は鎌倉時代初期に十郎暉種が駿河から八東郡に入部したと伝え、貞和二年(一三四六)安井保(現八東町)内の新興寺 (現同上)領をめぐって同寺と安井保三分二地頭青木実俊が 争った際の史料に、幕府の使者として矢部左衛門尉綸網 の名がみえ(同年閏九月一七日「足利直義下知状案」新興寺文 書)、同じ頃千土師郷(現智頭町)にも進出を企てている(智頭町の→千土師郷)。
また「太平記」巻三二にも山名時氏・ 師氏の有力部将として登場しており、同じく同書にみえ る小幡(小畑)氏とともに室町時代を通じ八東郡有数の国 衆として活躍、一族に矢部北川(北河)氏がいた。
長享元年(一四八七)頃、矢部山城守は私部城(現郡家町)の毛利(森) 氏と組んで、山名氏一族山名孫次郎(政実)を擁して守護 山名豊時に対し反乱を起こした。
このときは勝利したが (郡家町の→私部・私部城)、延徳元年(一四八九)一一月山名豊時勢の反撃に遭い、敗れて政実とともに若桜の館で自害 している(「蔭涼軒日録」同年一一月二〇日条)。
その後尼子氏 の因幡侵攻のなかでも勢力を保持していたが、天正三年 (一五七五)山中幸盛によって滅ぼされた。
すなわち「家久君上京日記」同年六月一七日条によると、島津家久は帰 郷の途中「若狭乃町」を通ったところ、二、三日前に山中幸盛が謀略により、「若桜の城」も城主を生捕り、尼子方の兵が城に入るところに行会わせている。
天正三年八月、吉川元春は山名豊国を助けて尼子退治 のため出陣し、当地をねらって長年毛利(森)氏と対立してきた八木氏と手を結び(八月二五日「八木豊信・同信慶連署 状」吉川家文書)、八月二九日元春方の草刈重継らが尼子勝 久・山中幸盛の立籠る「尼子居城鬼城」を攻撃、山下で合戦したが落すことはできなかった。
元春は一〇月当城 に相城をつけ、手勢を残したうえでいったん帰陣した(同 月一五日「毛利輝元書状」閥閲録など)。
しかしこの元春の出陣により「若桜要害」も鎮まり、避難していた郷内の農民も姿を現すようになり(一一月二四日「八木豊信書状」吉川 家文書)、同年中に当城を残して因幡国は平定され、次い で翌四年五月には当城も多数の相城がつけられた効果が 現れ、落城寸前の状態になっていた(同月七日「八木豊信書 状」同文書など)。
しかし七月二一日、吉川元春は山名豊国 にとって因幡一国が平定されたことは喜ばしいが、織田信長勢の動きにより当城を取ることができなかったことを残念がっている「吉川元春書状」閥閱録)。
同七年七月二 七日、吉川元春らは北表の進軍を急ぐため、備中新見出 陣中の小早川隆景らからの評定の申入れを断り、もし万一現在味方についている者たちが敵につきそうになったら、自身八橋(現東伯町)、鹿野(現鹿野町)まで罷り出で当地まで諸勢を差出し、八木・竹田両氏を味方に引留めたいとしている(「吉川元春外四名連署状案」吉川家文書)。
同年一 一月祝山と北賀茂の中間に城を取付けることとなり、そ の年の夏以来若桜表に在陣中の吉川勢等が派遣されてい る(一一月二日「小早川隆景外二名連署状」同文書)。 天正八年五月、羽柴秀吉の弟秀長らが先手として但馬 口から侵入したため、当城などにいた毛利方の在番衆は 鳥取城へ退き(同月二三日「吉川元春書状写」山田家古文書)、 秀長は空城同然の当城を攻め崩し、当城には八木豊信が入った(六月一九日「羽柴秀吉書状」利生護国寺文書)。
翌九年 五月には逆に毛利方が当城を攻囲し、同月一九日、吉川経家は当城などには兵力・兵粮ともになくなり、いま一 歩で落城すると伝えている(「吉川経家書状」吉川家文書)。
鳥取落城後の天正九年一一月四日、秀吉は鬼ヶ城の物見に木下平太夫重堅(因幡民談記」では重賢)を定め、八東郡を与えた。
また智頭郡は磯部康氏・八木豊信に折半し て与え、両人を木下平太夫に付けるなど、国の掟を定め ている(「羽柴秀吉掟書」間島文書)。
木下平太夫は本姓荒木氏で、天正六、七年頃秀吉に仕え、宮部継潤に属して活躍、木下の姓を与えられた。
同一五年備中守を受領、同 一八年の相州小田原城攻め、文禄元年(一五九二)の朝鮮出 兵にも従軍。
同三年には山城伏見城の工事も分担している。知行高は二万石であった(「当代記」など)。
慶長五年 (一六〇〇)の関ヶ原の合戦には西軍に属し、西軍敗戦後の 一〇月、摂津で自殺したという。
その後当城には摂津三田城から山崎左馬尤家盛が入り、八東・智頭二郡などで 三万石を領した。
家盛は同一九年に没し、同年子家治が家督を継いだが、元和三年(一六一七)備中成羽(現岡山県成 羽町)へ転封となった(徳川実紀・寬政重修諸家譜)。
その後の 当城は、同年鳥取城主となった池田光政が因伯二国を領 したため池田氏の統治下に置かれ、やがて廃された。
遺構は昭和六三年(一九八八)から三ヵ年間にわたって調査が行われ、中腹に矢部氏最末期時代のものとみられる 土塁・空堀、山頂に近世初期の手法がみられる石垣を中心とした遺構群が検出されている。
また中腹と山頂の間にも石垣などが残されており、中腹から山頂へ中枢となる建物が移されていく過程のものと考えられている。
矢部氏没落後に若桜に入った木下平太夫によって中枢機能 がしだいに山頂へ移され、山崎氏の時代に山頂に本格的な城郭が築かれたものとする説が有力である。
山頂部か らの出土遺物は瓦類・白磁・陶器・瓦質土器・金属製品 (おもに鉄釘)などで、とくに沢瀉・陰陽小槌紋軒平瓦は他に類例がなく注目されている。
また山頂遺構のなかに開口部の石段が最奥部で石垣によって断絶しているという特殊構造の虎口があり、その性格や意味の解明が今後の課題をされている(若桜教育委員会「鬼ヶ城遺跡」)。
『鳥取県の地名』より引用。
城の歴史(看板より)
正治2年(1200):矢部氏が鎌倉幕府より梶原景時追討の功で因幡に入部か。
応安 年間(1368~75):若桜神社の縁起に「矢部若桜守八東郡鶴尾山開始す」と記述あり。
延德元年(1489):山名政実・矢部山城守・毛利次郎が「矢部館若狭(桜)」で自刃。
天正3年(1575):6月、山中幸盛(鹿之助)ら尼子党が「若桜城主」を生け捕り、入城。
8月、草刈景継が「鬼ヶ城」を攻め、7人を討ち取る。(→文献上に「鬼ヶ城」が初めて登場する)
10月、吉川元春が鬼ヶ城下に着陣。八木豊信に指示し、氷ノ越を封鎖。
天正4年(1576):尼子党が鬼ヶ城から撤退。城は毛利の在番が支配。
天正8年(1580):5月、羽柴軍が因幡攻めを開始。毛利の在番は鬼ヶ城から撤退。
6月、八木豊信が城主となる。
11月、木下重堅が城主となり、八木豊信は木下氏配下に降格。
慶長5年(1600):関ヶ原の戦いで木下氏は西軍に与し、摂津天王寺で自刃。
慶長6年(1601):山崎家盛が木下氏に代わり、城主となる。
慶長18年(1613):家盛没す。子・家治が城主となる。
元和3年(1617):池田光政が因幡・伯耆両国の領主となり、山崎家治は備中国成羽に転封。
以降、鬼ヶ城は廃城となったか。
城主石高
木下時代:2万石
山崎時代:3万石
所感
●因幡国の中でトップクラスの山城、城自体は矢部氏の中世というよりかは、木下、山崎氏が入部した頃からのもの。
●ここに住んでおり、但馬街道、播磨街道を見ていたと思うと、感慨深いものがある。
●城は石垣を多用しており、石垣ファンにはたまらない、破城の跡もあるが、島根県の赤穴城と雰囲気が似ている。
●六角石垣が見どころの1つ。
●天守台付近には今でも瓦の残骸が多くあり、数百年前にここに立派なたてものがあったことが分かる。
関連URL
八木豊信がかつていた八木城。
近隣の木下時代には磯部氏と共同と統治していた。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
『若桜町誌』
公開日2021/12/12