城データ
城名:勝山城
別名:無し。
標高:80m
比高:60m
築城年:興国年間(1340~46)
城主:首藤豊後守 尼子正久?
場所:鳥取県鳥取市気高町勝見
北緯:東経:35.504425/134.049423
攻城記
現在は公園化されており霊場巡りが出来る。
このような地蔵もあるが荒れている。
日本海も見える。
余湖図【勝山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
JR山陰線浜村駅の南の独立丘陵に位置する。
標高約70mの山頂に主郭を置き、東西・南北に派生する尾根に郭、堀切を配する。
主郭の南側には献状の竪堀が見られている。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
勝山城
勝山城は、気高町勝見の安寧山長泉寺の裏山にあった。
西を大手とし、東の長泉寺側を搦手とする。
勝見の地籍図をみると、大手の西側山麓に「乗御前」「乗御前口」という小字があり、また、城主の菩提寺跡という「大通寺」という小字が八幡の地籍図にみられる。
山上の本丸は「東西三十間(約五四m)、南西七―八間(約一三~一四m)」の 規模で、眼下に勝見谷の平野を望み、北西方には日本海が一望できる。
本丸の 二の丸は「方十五間(約二七a)」で、浜村の温泉街や砂丘を見下 、二の丸の南の三の丸の広さは「乾巽十間(北西・南東約一八の 十六間(南西・北東約二九m)」であった。
そのほか郭・土塁などが数多くあったというが、いまでは地形が荒廃して正確な規模はわからない。
勝山城主は首藤豊後守といわれているが、首藤氏の名は『太平記』の文和四年(正平十、一三五五)の「神南ノ合戦」で討死した「伊田・波多野・・・河村・ 首藤・大庭・・・」など「侍八十四人、その一族郎従二百六十二人」の中にみられ、それより前の興国年間、山名氏に従って因幡に来て、勝山城を築いて居城としたという。
そののち、永禄年間(一五五八~七〇)、出雲尼子氏の部将尼子豊後守正久が、 伯耆を経て因幡に侵入し、勝山城を落城させて、首藤氏に代わって城主となった。
ついで、天正(一五七三~九二)の初め、羽柴(豊臣)秀吉の命を受け鹿野城の亀井新十郎が近隣の諸城を攻めたが、勝山城は堅固で容易に落とすことができなかった。ある時、 亀井新十郎は謀をめぐらし、気高町宝木の奥の坂本集落の「化の河原」 に人数を伏せておいた。
村人がこのことを勝山城に知 らせたので、尼子正久は兵を率いてこれを攻めた。そ の隙に亀井新十郎 は一隊を率いて勝山城を攻め、これ を落としたといわれる。
城の歴史
興国年間(1340〜46):首藤豊後守によって築城される。
※首藤氏は山名氏に従い因幡国に入部したとある。
永禄年間(1558~70):尼子正久により攻められ落城し城主となる。
天正年間(1573〜92年):豊臣秀吉の命令にて鹿野城の亀井新十郎が攻めたが落城せず謀略をもって落城させる。
所感
●城主が首藤豊後守というのは分かるが、尼子正久というのはおそらく後世の潤色だと思われる。
●秀吉の命で勝山城を亀井新十郎が攻めたとあるが、当時は毛利と秀吉の戦いであり、尼子は没落していた。
●時代を遡って尼子晴久の時代や祖父の経久の時代だとも考えられるが、正久という人物が見当たらない。
●尼子正久というのは政久(1488~1513)なのかもしれない、正久は経久の嫡男で晴久の父であるが、若くして戦場で亡くなる。
●しかし、政久も1513年には亡くなっているのでそのころ因幡国まで深く侵攻しているとは考えにくい。
●仮に尼子氏が攻めたのであれば晴久の時代のことを誤謬して政久(正久)となったのかもしれない。
●それでも秀吉時代ではなく、時代も
関連URL
勝山城を攻めた亀井新十郎の居城である鹿野城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
『因伯の戦国城郭 通史編』高橋正弘
公開日2021/12/11