城データ
城名:大和郡山城
別名:犬伏城
標高:80m
比高:30m
築城年:応保2年(1162)頃には砦程度のものがあったらしい、戦国時代初期には城があったとされる、本格的な築城は天正8年(1580)
主な城主:筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
場所:奈良県大和郡山市城内町
北緯:東経:34.651874/135.779040
攻城記
最初の堀。
進んでいく。
櫓のような建物。
なかなか立派。
城門。
なかなか堅牢な造りをしている。
本丸
本丸全体は南北150m、東西70mの規模で、北端の天守台がある一画がすこし西側にずれて接続する形となる。
本丸の周囲は高さ10〜14mの高石垣と幅10〜30mの内堀に囲まれている。
本丸内には月見櫓、白沢門、竹林門、坤櫓、厩向櫓などの建物が建ち、それぞれが多聞櫓で連結されている。
天守台の周囲は塀で囲まれていた。内堀には二つの橋が架けられていた。
東側の毘沙門郭から極楽橋を経て本丸に至るのが正規のルートであり、極楽橋は表門として位置づけられていた。
現在、本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが、竹林橋本来は裏門の扱いであった。
本丸と天守台の石垣
正面に見える本丸東面の石垣の最下部に四角い石材がいくつも並んでいる状況がみてとれる。
南北幅20m、高さ2mの範囲に約60石が集中して積まれている。
すべて墓石、地蔵などの転用石材である。郡山城の石垣には転用石材が数多く使われているのが特徴であるが、ここは城内で最も集中する場所であり、また、全国的にみてもこれほど集中的に積まれている事例はない。
初期の城づくりのすさまじさがうかがわれる。その右側から隅角部にいたる石積みは大きな自然石を使う野面積みであり、荒々しい印象を受ける。
その上部には少し小ぶりの自然石が積まれる。隅角部は石材の長い面と短い面が交互に現れるように積む。算木積みという技法であるが、まだ完域型にはいたらない初期の算木積みの様相を待っている、上郷にいくほど石材は小さくなる。
左側の月見櫓下の隣角部は四角い割石を用い。現編石を配する完成された算木積みを呈する。本丸石堰ではもっとも新しく精美な石垣である。さらに天守台石垣の隅角部は、この本丸北東角部と月見櫓下の石曜の中間的な様相をもっている。
このように本丸と天守台の石垣には築造された時難が違うものがあることがわかる。愛度かの改修、整備を経て石垣全体が完成しているのである。
平成29年3月 寄贈:明日のお城と城下町を考える会
本丸天守台全景。
内部に進む。
さかさ地蔵。
墓石の一部。
天守台からみた風景。
天守台の石。
天守台の石垣。
石垣の高さが分かる画像。
余湖図【大和郡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
郡山城
十五世紀中頃から十六世紀初頭にかけて、郡山中氏は越智方に属し、郡山辰巳・矢興氏は筒井氏に属して対立していた。
文明七年(一四七五)の万歳合戦で、中氏が郡山辰巳の手によっ て討死し、同十四年(一四八二)九月 の郡山合戦で、寄せ手の野興胤弘の息が討死したなどの激しい対立がみられるが、大体、中氏が優勢で、この頃、中氏の居館が城郭化したと思 われる。
明応七年(一四九八)二月、 郡山中氏は筒井勢に攻められて没落、 以後、筒井の軍門に降り、郡山衆は こぞって筒井氏傘下の西脇衆として 行動するようになる。
永正二年(一 五〇六)八月、赤沢朝経の率いる京 軍の来襲に備えて、西脇衆が郡山城に立て籠もったが、二日後に落城し た(『多聞院日記』。
これが郡山城の 初見史料である。 筒井・松永両氏の抗争期には郡山城は筒井・井戸両城と共に国中北部 の拠点の城として、激しい争奪戦が 演じられた。
永禄十一年(一五六八) に筒井落城、元亀元年(一五七〇)に 井戸落城ののち、郡山城だけが筒井方によって死守されるようになり、 松永方はこれを落とすために四方に 押城(付城)を築いて包囲したが、ついに持ちこたえ、同二年八月、筒井の主力軍が当城に集結して発進し、 辰市城合戦で松永軍を打ち破った。
筒井順慶は天正五年(一五七七)の松永久秀の減亡後、筒井城の拡張工事を開始し、同七年八月、多聞城の石を筒井に運ばせたが、地形の不利から筒井城を断念し、郡山城を本城として改修することとなった。
翌八年八月、織田信長は大和一国の指出し(検地)と城割(破)を命じ、郡山一城を残して他の諸城を破却させた。
そのうえで同年十一月、順慶に大和の支配を許した。郡山城に入城した順慶は、郡山辰巳氏を成敗して郡山衆の影響力を一掃し、翌九年から大々的 な築城工事を行なった。
普請の目付に明智光秀も来城していることから、郡山築城は信長政権の畿内支配の一環であったことがわかる。
同十年、本能寺の変で信長を倒した光秀は、順慶の出陣を求めたが、順慶は籠城したまま動かず、これが俗に「洞ヶ峠」の日和見の話の源となる。
順慶は 光秀を倒した豊臣秀吉のもとに参じて大和一国を安堵されたので、郡山築城を継続し、翌十一年四月、「天守」を築いて一応の完成をみた。
しかし十二年八 月、二十八歳の若さで世を去り、小泉氏から養子に入った定次が跡を継いだ。
定次も翌十三年、伊賀国に転封を命ぜられ、郡山城の筒井氏時代は幕を閉じた。
代わって秀吉の異父弟豊臣秀長が郡山に入城し、大和・紀伊・和泉百万石の 大名にふさわしい大規模な居城として面目を一新することになる。
同十五年に は根来寺の大門を移して城門とし、翌十六年に奈良中の家ごとに五郎太石二十荷宛ての強制供出を命じた。
寺々からも石を供出させたので、礎石・石仏の類 が大量に投入された。
今日、石垣の諸所に転用石材が認められるが、詳細は南村俊一氏の調査による『郡山城趾転用材調査概要』(柳沢文庫)に報告されてい る。
秀長は城郭と共に城下町の整備も手がけ、奈良の商家を郡山に移して商人町 をつくり、箱本十二町の制度を敷いた。
中世郡山衆ゆかりの郡山八幡は、旧地 から城下の南隅に移された。
同十九年(一五九一)に秀長が没し、跡を継いだ秀保も文禄四年(一五九五)に急死したので、百万石の城の時代は終わった。
代わって豊臣政権五奉行の一人、 増田長盛が入城し、城下町全域を包み込む総構えを構築した。
すなわち、秋篠川の流路を東に付け換えてその跡を東縁の外堀とし、また、西の丘陵地帯には 溜池を連ねて西縁の外堀とし、両方を屈曲する堀でつないで一周させた。
この総構えは東西一・六皿、南北一・四畑の範囲を取り囲む壮大なもので、総延長五〇町一三間に達する。
増田長盛は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで西軍に属して改易され、大 久保長安・山口駿河守・筒井主殿が入れ代わって在番した。
筒井一族の福住氏 から出て筒井の家名を継いだ筒井主殿定慶は、郡山在番中の元和元年(一六一 五)、大坂夏の陣に際し、大坂方の大野主馬の率いる筒井旧臣らの軍の来攻に遭い、城下を焼かれて逃亡し、自殺した。
代わって水野勝成が六万石で入城し、 城を復旧した。
以後、藩政時代に入り、松平・本多と続き、享保九年(一七二四)に甲府から柳沢吉里が入って幕末まで柳沢十五万石の居城として続いた。
以上のように、近世の郡山城は、筒井時代・豊臣時代・増田時代・藩政時代 と各段階に修築が加えられて、今日、遺構の残る規模に発達した。
城の歴史
天正8年(1580):筒井順慶が入城して本格的な城にする。
天正13年(1585):羽柴秀長が入城して大規模な改修を実施。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにより西軍についた増田永盛が負けて廃城となる。
元和元年(1615):水野勝成が修復を行う。
享保9年(1724):柳沢吉里が城主となる。
城主石高
羽柴秀長時代:100万石。
水野勝成時代:6万石。
柳沢時代:15万石。
所感
●筒井氏が築城する前にも砦程度のものはあった、本格的な近世城郭にしたのは羽柴秀長だと思われる。
●非常に整備されており、分かりやすい城。
●天守台には「さかさ地蔵」やお墓の残骸が組み込まれている。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』10
『奈良県の地名』
『奈良県地名大辞典』
公開日2021/11/26