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城データ

城名:小谷城

標高:495m

比高:230m

築城年:永正13年(1516)

城主:浅井氏

場所:滋賀県長浜市湖北町伊部

北緯:東経:35.459011/136.277116

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

立派な看板で分かりやすい。

 

番所跡

 

御茶屋跡

合間から麓を臨む。

馬洗池 御馬屋

 

首据石

 

桜馬場跡

 

家臣墓所

 

黒金門跡

 

大広間跡

 

本丸跡

 

大堀切跡

 

中丸跡

 

刀洗池

 

京極丸跡

 

小丸跡

 

大石垣跡

 

山王丸跡

 

赤尾屋敷

 

金吾丸跡

 

余湖図【小谷城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

小谷城

小谷城は、長浜平野の北東隅に突き出した伊吹山系の一支脈である小谷山に 築かれていて、浅井氏三代の居城であった。

 

小谷山は背後に伊吹山系 の深山幽谷を控え、前面に 丁野山・山脇山・虎御前山・ 雲雀山などの小丘をもつ自 然の要害であるうえ、城郭の築かれている最頂部大嶽 から南東および南西に馬蹄 形にのびる尾根は、断崖絶 壁であって、鉄壁の守りと なっている山である。

 

その 険要さは、軍事戦略の天才、 織田信長が、小谷城攻略に三年も費やしたことに充分示されている。

 

この小谷山 は、たんに険要であるだけ でなく、交通の面において も枢要の地であったのである。

 

つまり、小谷山の山麓足下には、越前と美濃を結ぶ北国脇往還があり、南には戦国時代の大動脈・中 山道が、西には中山道から分岐して越前に向かう北国街道が、さらに背後の伊 吹山系の山中には、越前や美濃への間道が張りめぐらされているのである。

 

すなわち、小谷山は、北国と東海を結ぶ扇の要の位置にあり、小谷城は、その要 のところに築かれた北国と東海の最前線に位置した城ということができる。

 

浅井氏の出自に関しては諸説あるが、浅井氏自身は、藤原姓を称していたようである。

 

しかし、一般には、浅井郡の郡名を負う姓氏からみて、江北におけ る古来よりの旧家名族であったと考えられている。

 

応仁・文明の乱後、近江国 守護職であった京極氏は、燃嗣問題で内紛を起こすが、浅井亮政は、この内輪に乗じて、京極氏の家臣団のなかで最大の勢力を誇っていた上坂信光を失脚せしめた。

 

時に大永三年(一五二三)三月のことであった。

 

それでは、上坂氏に替わり江北の実権を握った浅井亮政は、いつ頃、小谷城 築いたのであろうか。

 

一般には、亮政が、上坂信光と共に尾張に発った京極高清を、小谷城のいわ ゆる京極丸に迎えたと所伝される年、すなわち大永四年だとされている。

 

しかし、文献での初見は、『宗滴話記』の「四十九歳、江州北の郡大谷(小谷)、七 月十六日城責有之」の記載である。

 

この城貴とは、六角定頼が、浅井亮政の勢 力が強大にならないうちに討ち破ろうと兵を進めた大永五年の攻撃を指してい る。

 

大永五年ということは、さきの所伝と一年しか違わないということであり、 いずれにしても、小谷城は、上坂氏を失脚させた翌年か翌々年にはすでに築城 されていたことになる。

 

この時の城郭がどのようなものであったかは明らかにしがたいが、『浅井三代記』には、「十日計カ間ニハャ堀土手総構出来スレバ」 とされているように、小規模な砦のようなものであったと考えられている。

 

大永五年の六角定頼の攻撃は、朝倉教景入道宗満の来提によって一時は持久 戦に持ち込まれたが、結局は、形勢利あらず、浅井亮政はいずこかへ出奔して しまった。

 

この時、朝倉教景が滞陣したところが、金吾(左衛門尉の唐名)嶽とされている。

 

その後も、浅井亮政と六角定頼はしばしば戦うが、いずれも相手 に打撃を与えるほどの勝利を得なかったようである。

 

しかし、この間に浅井氏は、しだいにその勢力を確固たるものにしていったものとみえ、天文三年 (一五三四)八月二十日、亮政は、主家たる京極高清・高延父子を宿所において饗応していることが伝え られている『続詳書類 従』巻六六三「天文三年 浅井備前守宿所餐応配」。

 

この宿所のあった所は、 山上の城郭ではなく、山麓清水谷の居館であると 一般にいわれている。

 

いずれにしても、この天文 三年の頃には、小谷城は、 山上の城郭も、山麓の寝 小星もほぼ完全に整備されていたことがうかがわ れる。

 

このことは、天文 七年、京極高清の卒去と共に生じた京極氏の内粉 に乗じ、六角定頼が再び 江北に兵を進めた時、六 角の兵が、「小谷里に所 々放火」(『鹿苑日録』) しているということから も知ることができる。

 

天文十一年、亮政の死 によって久政が家督を継ぐが、この久政の時に、「当城撮手に従諸山一坊宛被 立置候間」(『浄信寺文書』と、小谷城内に六坊と称される出坊を建てたことが 伝えられている。

 

久政は、永禄三年(一五六〇)、家督を賢政(のち長政)に譲り、 小谷城内の小丸に隠居したという。

 

長政は、日の出の勢いの織田信長の妹をめとり信長と姻戚関係を結び、勢力の拡大をはかった。

 

しかし、元亀元年(一五七〇)四月、信長が朝倉義景を討とうとして若狭から 敦賀に入るや、突如、長政は信長に反旗をひるがえした。

 

ここに信長は朝倉に先立って浅井を討とうとして、六月二十一日兵を進め、姉川で浅井・朝倉の連 合軍を破ったが、小谷城の守りは固く、いったん岐阜に帰っている。

 

その後も 信長は元亀二年八月・同三年三月と浅井を攻めたが、一進一退で勝敗の決着はつかなかった。

 

しかし、同年八月ついに最後の決戦を試みるべく出陣し、八月十 二日、浅井の家臣である浅見対馬守の手引きで大嶽を攻め落とし、続いて丁野 こも落とした。

 

これをみた朝倉勢は越前に撤退しようとしたが、信長追撃され、あえなく朝倉氏は滅びてしまった。

 

羽柴秀吉は、今や孤立無提となった 浅井氏に対して、二十七日、長政のいた本丸と久政のいた小丸の間の京極丸を落とし、久政・長政父子を分断すると、まず小丸を攻めて久政を自刃せしめた。

 

ついで翌二十八日、信長が本丸を攻め、長政を自刃せしめた。

 

ここに浅井氏は滅亡したのである。

 

小谷城は落城後、羽柴秀吉が入城したが、秀吉は、堅塁の小谷城を捨て、その居城を今浜(長浜)に築いた。この時、小谷城の建物の多くは長浜城に移され たと伝えられる。現在、彦根城の西の丸三重櫓は、長浜城の天守、すなわち小谷城の鐘丸であると伝えられている。

 

『日本城郭大系』11より一部引用。

 

城の歴史

永正11年(1516):このころ築城される。

 

大永3年(1523):このころ京極家中を掌握して、京極高清、高延親子を京極丸に迎い入れる。

 

大永5年(1525):六角定頼が小谷城を攻める、朝倉氏に救援を頼む。

 

大永11年(1531):浅井亮政死去。

 

永禄3年(1560):亮政は家督を長政に譲る。

 

永禄11年(1568):浅井長政が越前から美濃に移る途中の足利義昭を「浅井館」で迎い入れる。

 

元亀元年(1570):織田信長から叛旗をひるがえして小谷城を攻められる。

 

天正元年(1573):小谷城が信長に攻められて落城する。

 

所感

●山全体が城域化しており見ごたえのある山城。

 

●守護もこの山城にて庇護していたことから珍しい山城で、山頂にて生活して政も行っていた。

 

●大広間の広さは本当に広く、ここに館があったと思うとロマンがある。

 

関連URL

【滋賀県】観音寺城【近江八幡市安土町桑実寺】

小谷城を攻めた六角氏の居城。

 

参考URL

小谷城(ウッキペディア)

城郭放浪記(近江小谷城)

浅井氏(ウッキペディア)

武家家伝(浅井氏)

 

参考文献

『滋賀県の地名』

『日本城郭大系』11

公開日2021/11/26

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