城データ
城名:佐和山城
別名:佐保城
標高:233m
比高:145m
築城年:建久年間(1190~99)佐保時綱が築城との伝承がある。
主な城主:佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏
場所:滋賀県彦根市佐和山町
北緯:東経:35.279648/136.269516
攻城記
佐和山城全景。
麓にはこのような模型がある。
井伊家菩提寺を通りながら城に進む。
立派な本堂。
城に進む前にまたお寺あり。
石田三成像。
境内は整備されておりまた静寂さがいい。
井伊直弼の母親の墓もある。
奥を進むと佐和山城に続く道がある。
煙硝櫓跡入口。
この窪みは何?。
ここは西の丸らしい。
土塁跡。
削平地。
本丸。
登り口とは逆の方向が昔は大手であった。
遠くには彦根城が見える。
僅かに残る佐和山城の石垣。
千貫井戸。
ため池っぽい。
位置関係
余湖図【佐和山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
佐和山城
佐和山城は松原内湖に面した独立丘の佐和山山上に築かれた城で、大手は中 山道に面した鳥居本に開いている。
この山からは湖東平野が一望でき、同時に 中山道と北国街道との分岐が望まれる要衝である。
城跡は関ケ原合戦ののち、 井伊直政が入城したものの、 慶長十一年(一六〇六)には、 その子直勝により彦根城が築かれ、幕府および井伊家 によって石田色を一掃しよ うとしたため、多くの遺構 が破壊され、天守台など相当の削平が行なわれたとわれるが、比較的旧形状は保存されている。
城は佐和山の最高所に、 東西九七m×南北二〇mの 本丸跡を残し、その北側に 城御殿丸ともいわれる二の 丸・三の丸を配し、特に三 の丸は東西三八皿×南北三 五皿の面をもち大手に面している。
次に本丸の南には鐘の丸があり、その西南には太鼓丸が続いている。
そして、この鐘・太鼓の両丸は城内幹線ともいうべき切通しがある。
次に搦手となる本丸背面、つまり湖岸側には三成の本館があり、他の重臣の 屋敷も続き、百間橋を通じて松原内湖を渡って彦根山寺に通じている。
一方、 大手の方は、今日ではその大部分が水田となってしまっているが、大手門の両側の土塁の残りが良好な形で各々約七〇m にわたって残されており、さらに、 その外側には幅一二m近くの堀の跡が残されている。
そして、この堀のさらに 東二五〇m付近に中山道が通っているのである。
当城跡が最初に文献に現われるのは建久年間で、佐保時綱の時代である。
その後はしばしば砦として利用されてきた。
特に六角佐々木氏の領有するところとなり、大永年間(一五二一~二八)には、佐々木定頼の命により小川左右大輔が城主となった。
そして京極氏に替わって湖北の雄浅井氏が台頭し、その将磯野伊予守員吉、その子員昌が入城し、元亀二年(一五七一)から天正十年(一五 八二)にかけて織田軍と戦った。
そしてついに開城するにいたった。
本能寺の変後、秀吉は当城跡の良好な立地条件を考えて、天正十一年に堀秀政に五万石を与えて守らせている。
その後は激しく城主が替わり、天正十三年には堀尾吉晴が、同十八年には石田三成が十九万四千石をもって城主となった。
三成は改めて城を整備し、城下には善政を施し、恒久的な城への構えを造った が、関ヶ原の戦に敗れてのちは井伊氏が入城し、彦根城に移ったのである。
『日本城郭大系』11より引用。
城の歴史
天文7年(1538):3月六角氏の家臣二階堂小四郎が佐和山麓で坂田武士若山宮左衛門を討ち取る。
天文7年(1538):5月京極家家重臣多賀貞隆が当城を落として百々三河守を城代にしている。
天文10年(1541):浅井氏に肩入れした六角定頼は進藤貞治を当城に遣わし、坂田・犬上両軍の諸士の人質を当城に収容させる。
永禄2年(1559):浅井長政が六角方から離反した際には浅井家臣となった百々氏が城を守っていた。
永禄4年(1561):百々隠岐守盛実が六角方に攻められて自害するが浅井家臣の磯野員昌が即帰城して以後磯野氏の城となる。
元亀元年(1570):織田と浅井・朝倉の合戦(姉川の合戦)にて磯野軍は敵中突破して帰城に成功する。
元亀2年(1571):織田軍が佐和山城を包囲し、開城を勧め磯野氏も開城する。丹羽長秀が城代となる。
天正10年(1582):本能寺の変に乗じて若狭の武田元明が当城を攻め落とす(明智家臣の荒木山城守を入城させる)
天正10年(1582):清須会議以降に堀秀政が9万石で入城する。
天正18年(1590):石田三成が19.4石で入城する。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで石田三成の代わりに井伊直政が18万石で入城する。その後廃城となる。
城主石高
堀秀政時代:9万石→16万石
石田三成時代:19.4万石
井伊直政時代:18万石
所感
●彦根城築城の時に城の部材を佐和山城から運んだとのことで石垣なども運ばれたが僅かに痕跡がる。
●本来は城の東側に大手がありそこから登城していたので現在のイメージとは違う。
●麓からもすぐに登れて、本丸からは彦根城を一望できる。
関連URL
参考URL
参考文献
『滋賀県の地名』
『日本城郭大系』11
公開日2021/11/21