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城データ

城名:安土城

標高:198m

比高:105m

築城年:天正4年(1576)織田信長によって築かれる。

城主:織田信長

場所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

北緯:東経:35.155907/136.139422

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

特別史跡安主城跡 

安士城の築城は、織田信長が武田勝賴を長線の合戦で打ち破った現年、天正4年(1576)に始まります。

 

築城にあたっては、綾内・東海・花陸から多くの大夫が微発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。

 

まさに安土城は天下統一の拠点となるぺく当時の文化の粋を集めたものだったのです。

 

築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。

 

しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明客光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。

 

それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。

 

しかし、天正12年小校長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終薦を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。

 

その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた總見寺がその善提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。

 

安士城跡は大正15年(1926)に史に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生兼安主町・策近江市(旧能療川町)にまたがる約96万mが特別史跡に指定されました。

 

昭和15・16年(1940ㆍ41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年〜50年(1960〜1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。

 

そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。

 

安土城を象徴する道ー大手道

目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。

 

大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されています。

 

大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側に幅1〜1.2mの石敷価溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。

 

道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽菜秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されています。

 

まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。

 

山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。

 

この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。

 

伝武井夕藤邸跡の北東付近から大手道は東へ届曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。

 

屈曲部は幅4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道にな安士城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行き交う人々に信長の力を強く印象付けたことでしょう。

 

攻城スタート

石仏も取り込んでいる。

伝羽柴秀吉邸宅跡

伝前田利家邸宅跡

 

さらに進んでいく。

 

黒鉄門跡

 

織田信雄公四代供養塔

 

更に進む。

二の丸跡。

織田信長公廟所となっている。

天主方向を見上げる。

本丸跡

途中通行止めでストップ。

天主閣跡に行く。

天主閣跡

素晴らしい天守閣。

天主閣から見下ろす、当時は琵琶湖がギリギリまできていた。

 

戻っていく。

 

摠見寺本堂跡

現代の摠見寺が見える。

 

摠見寺山門。

山門仁王像。

麓まで到着。

 

滋賀県立安土城考古博物館

天主閣(復元)

美しい。

復元模型。

 

大手道の様子。

信長公最盛期。

廃城跡。

更に経過。

最終大手道も無くなる。

安土城模型。

 

余湖図【安土城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

安土城

 

安土城は、近江国のほぼ中央にそびえる観音寺山から北西にのびる一支尾根 である安土山に築かれた織田信長の居城である。

 

この山は、標高一九九・二m の低い山で、いくつかの峰が、ラクダのコブのように連続している。

 

この峰と峰との間に、いくつもの谷が形成されているが、その谷は、低い山のわりには深く、険しいものとなっている。

 

また、現在は、干拓によってその姿を失ってはいるが、かつては、弁天内湖・伊庭内湖という琵琶湖最大の内湖群に三方を囲まれていた。

 

安土築城以前の安土山については充分明らかではないが、大手東側の蓮池付近や安土山の先端部に古墳が築かれていることや、立石・岩神・山ノ神、あるいは、薬師平・九品寺などの地名が山中にあることから、早くから信仰の山と して崇められていたようである。

 

安土という名称は、信長が築城に伴って命名したことは、『信長公記』にお いて、「安土」という呼称が天正四年以後でしか用いられておらず、それ以前 「常楽寺」と記されていることによっても明らかである。

 

それでは信長が「安土」と命名したかであるが、それは、築城以前、この山に安土寺と称 する寺院があり、信長がその名前を採ったためと考えられる。

 

安土寺の名は、 東大史料編纂所蔵の『大乗院文書』の「豊浦郷庄検注目銀」正脚二年時にみられる。

 

天正四年正月中旬に工を起こした安土城は、着工後一か月余りで早くもその 一部、おそらく信長のための仮殿が完成したとみえ、信長は、岐阜から安土へ移っている。

 

その後、四月に入ると、城内の石垣を築くために、観音寺山や長 命寺山・長光寺山・伊庭山などから石を運ばせると共に、天守を築くために、畿内および近国の諸侍をはじめ、京・奈良・堺の 職人を召している。

 

起工より一年半ほど過ぎた天正五年六月に、信長は、 有名な「安土山下町掟 書」を定めているが、これは安土城および山下の 城下町の体制が、ある程度整えられたことを示し ている。

 

ここに、安土城は最後の仕上げをするた めに、同年八月二十四日、 いよいよ天守の普請を始 めている。

 

天守が完成し、 信長が天守に移り住んだ のは、同七年五月十一日 であった。

 

しかし、信長 が、心血をそそいで築い た安土城も、同十年六月 二日の本能寺の変によっ て、たちまちにして暗転することとなったのである。

 

安土城の焼亡について は、六月十四日、明智秀満が退城の時に火をかけたとも、翌十五日に入城してきた織田信雄の兵が、 明智の残党狩りのために、城下に放った火が城に移ったともされる。

 

しかし、『兼見卿記』に、「六月十五日壬申、安土放火云々」とあることから、一般に、十五日の城下放火による天守類焼説が採りいられている。

 

安土城は、北、東、西の三方を湖に囲まれ、南を三十数mの堀によって隔てられている。

 

したがって、城下からの火が天守に移ったとするならば、城下にもっとも近い百々橋に表門を構える總見寺がまず焼失しなければならない。

 

しかし、總見寺は、山門をはじめ 全伽藍が江戸時代末まで残存しているのである。

 

このことは、天守の焼失が城下からの類焼ではないのではないかとの疑問を抱かせる。

 

そこで注目されるのが、『イエズス会日本年報』の、「附近にいた信長の一子(信雄)が如何なる理由 によるか明らかでなく、智力の足らざるためであろうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついでに市にも、火をつけることを命じた」という 。

 

宣教師の報告書の信憑性からして、おそらく、これが事実に近いものと考えられる。

 

安土城焼失直後の翌十六日、秀吉は安土城に入るが、二十七日には清洲に赴き、信長の嫡孫である当時三歳の三法師を後継者と定めている。

 

これにともない天正十一年正月、三法師の後見人となった信雄が安土城に入城している。

 

信雄の入城と前後して、秀吉は、二の丸に信長の廟所を営み、一周忌には大々的に法要を行なっている。

 

この廟所は、その後、天保十三年(一八四二)に改築されていることが廟所前の碑より知られる。

 

天正十二年三月、秀吉を快く思わな かった信雄は、家康と同盟を結び小牧・長久手で戦ったが敗れ、失脚した。

 

ここに安土城は、再びその主を戴くことなく叢林の間に埋もれ、今日に及んでいる。

 

『日本城郭大系』11より引用。

 

城の歴史

天正4年(1576):正月に安土城築城開始、

 

天正7年(1579):完成。

 

天正10年(1582):本能寺の変が起こりその直後火災にて焼失。

 

天正11年(1583):織田信雄が三法師の後見人となり入城する。

 

天正12年(1584):小牧・長久手の戦いにて信雄が失脚する。

 

天正13年(1585):廃城となる。

 

所感

●山全体が城域となっているが、進入禁止の部分も多く、もう少し整備して解放して欲しい。

 

●近世城郭の出発点であるこの城は石垣も高く積み上げており、当時の技術の最高峰を駆使して築城してものと考えられる。

 

●築城に関しては「火天の城」という映画があり、いい映画。

 

関連URL

【滋賀県】観音寺城【近江八幡市安土町桑実寺】

近隣の観音寺城。

 

参考URL

安土城(ウッキペディア)

城郭放浪記(近江安土城)

 

参考文献

『滋賀県の地名』

『日本城郭大系』11

公開日2021/11/06

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