城データ

城名:小牧城

標高:86m

比高:70m

築城年:永禄6年(1563)織田信長によって築かれる。

城主:織田信長、徳川氏

場所:愛知県小牧市堀の内(小牧山)

北緯:東経:35.292518/136.913436

小牧城はここ

 

 

攻城記

往時は堀か。

土塁っぽい。

 

史跡小牧山

昭和二年十月二六日国指定

 

市街地の西に位置し、標高八五・九点、総面積約二一㌶の小牧山は、尾張平野 の中に孤高する眺望の地である。

 

永禄六年(一五六三)、小牧山に初めて城を築 いた織田信長は、清須から居城を移し、南麓に計画的な城下町を形成した。

 

しかし、永禄十年に美濃の斎藤氏を攻略した信長は、稲葉山城(岐阜城)へ移ったため、小牧山城は在城わずか四年で廃城となった。

 

その後、本能寺の変で没した信長の後継者争いに起因する小牧・長久手の合戦 では、羽柴秀吉軍に対する織田信雄・徳川家康連合軍の主陣地が置かれ、信長の 城跡に大規模な改修を加え、陣城とした。

 

江戸時代には、尾張徳川家の管理下で一般の入山禁止など保護がなされため、遺構の保存状態は良好で、昭和二年には国の史跡に指定された。

 

東麓にあった小牧中学校の移転 に伴い、平成十年から発掘調査が 始められ、織田信長の城であった 当時は、堀で区画された武家屋敷 が立ち並んでいたこと、小牧・長 久手の合戦時には、これらの屋敷 跡を一部踏襲して堀や二重の土塁 で囲まれた帯曲輪を築造したほか、 深い堀を配した虎口(こぐち)を 設けるなど、厳重な防御がなされ ていたことが明らかになった。

 

これらの成果をもとに、平成十 三年から遺構復元等の史跡整備が 進められ、平成十六年四月から史 跡公園として公開されている。

 

小牧市教育委員会

 

整備されている。

山の中に入ると曲輪の跡が多くある。

本丸まではすぐに到着する。

実はこんな感じになっている。

転落石も昔はきちんと石垣を構成していたのであろうか?

往時の石垣を今復活している。

城の裏側。

これらも石垣の一部。

転落石が多いがきちんと記載されているので親切。

巨石の石垣があったという事はこれが安土城の原型か。

石垣が埋まっている。

元々にここにあった訳ではない?

歴史館は閉まっており入れず。

古牧山山頂からの景色。

天守閣アップ。

本丸あたりを一周する。

史跡小牧山主郭地区〜織田信長が築いた小牧山城〜

主郭の段築状石垣

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に到る主郭地区の史跡整備に向けて、構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり掘調査を実施しました。

 

曲輪001の南西法面にあたるこの場所の調査では、織田信長築城時(永禄期)の石垣を確認しました。

 

積み石は、斜面に露頭する巨石を一部に遺すのみでしたが、土中からは石状の裏込石が大量に出土し、積み石の背後に裏込層を備えた

石垣が築かれていたことがわかりました。

 

織豊期城郭として石垣を採用する初現となる小牧山城では、築造技術がまだ未成熟であったのか、石垣使用が常用化する近世城郭の高石垣と異なり、自然石の巨石を2〜3個積上げた低い石垣を段築状に築いた石垣であったことがうかがえます。

 

初期の石垣であり、防御施設としては決して堅固なものではありませんが、後に織田信長が天下人の威厳を示すために築いた安土城天主のように、小牧山の頂にそびえるように見えた石垣は、南麓の城下町に住んだ家臣団や領民の度肝を抜いたかもしれません。

 

小牧市教育委員会

 

麓に向かって降りていく。

いたるところに石垣の残骸がある。

城全体が曲輪群となっている。

山中にある河原石。

堀っぽい。

竪堀っぽい。

草木も少なく散策しやすい。

稲荷もある。

麓まで戻る。

尾張徳川藩主の墓碑がある。

 

余湖図【小牧山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間の戦いで今川義元を倒した織田信長は、美 濃の斎藤龍興と対抗するため、同六年、小牧山に新城を築き、清須から移った。

 

尾張平野中央部にある標高八五mの小牧山は、平野を一望に見下ろす要害の地 である。

 

山を五段に分けて曲輪とし、堀と塁を造り、山麓に三重の堀と西部に 総構えの長堀を設けた。

 

十年、信長は、斎藤龍興の居城、美濃国稲葉山城を攻略して移り、 城は廃城となった。

 

天正十年(一五八二)六月、京都本能寺に宿営して中国征討の策を練っていた信長が、天下統一の大業なかばで、明智光秀に討たれて挫折したあと、羽柴秀 吉はいちはやく明智光秀を滅ぼし、ついで織田家随一の老臣柴田勝家を倒し、 さらに信長の遺子信孝を殺して天下の大勢を制するにいたり、信長のいま一人 の遺子信雄にも圧迫を加え、彼を除こうとする気配がみえた。

 

単独ではとうて い秀吉に敵することのできない信雄は、亡父信長の盟友で、秀吉に次ぐ実力者 徳川家康を頼り、家康もまたこれに応じ、こうして信雄・家康連合軍が清洲を本拠として反秀吉の兵を挙げ、小牧・長久手の役となった。

 

時に家康は、尾張のみならず、土佐の長會我部元親や、紀伊の雑賀衆・根来衆などを誘って秀吉の背面をおびやかし、また、越中の佐々成政とも通謀して、雄大な秀吉包囲作戦を立てた。

 

秀吉はこの時、関西にあって全国制覇を志していたが、同十二年三月、およそ十万の大軍を率いて、尾張に侵入した。 (木津井堀筋)

 

これに対する織 田・徳川連合軍は、二、三万という劣勢であったが、家康は先手をとり、尾張平野の要ともいうべ き小牧山を占領し、さきに信長が築いた旧城を改修して、堅固な本陣を構えた。

 

戦闘は、尾張北部の犬山・羽黒方面から始まって、たがいに勝敗をかさねたが、小規模な局地戦であった。

 

長久手や蟹江で、家康はかなりの戦果をおさめ たが、両軍主力の決戦にはいたらず、持久戦のまま数か月を経過した。

 

収束をいそぐ秀吉は、たくみに織田信雄をあやつって単独講和を結び、さらに家康にも執拗にはたらきかけ、家康も大局的見地からこれに応じ、開戦からおよそ八か月後、両者の和議が成立した。

 

小牧・長久手の役は、秀吉方の池田恒興らが敗死した長久手の戦をのぞくと、 小競り合いに終始したが、その戦域は広い範囲にわたり、期間も三月から十一 月に至る長期に及んだため、多くの城砦が両軍によって造築され、小牧山周辺 には、とくに密集して造られている。

 

この戦役の結果、秀吉・家康の両雄が手を握り、秀吉による天下統一の事業はきわめて順調に進んだ。

 

家康にとっても、秀吉の大軍 に対して一歩も退かず、互角以上の戦いを続け、秀吉に和を請わしめたことは、その後の徳川家の立場を非常に有利なものにしたといえる。

 

江戸時代の小牧山は、尾張藩によって入山が禁じられ、 明治六年、政府に引き継がれた。同二十二年、徳川家に 払い下げられ、さらに昭和二年には小牧市の管理となった。

 

現在、遺構としては、山頂部の枡形跡に石組の一部と小郭が散見される。

 

山頂にある模擬城は、昭和四十三年に、地元有志が新 たに建造し、小牧市に寄贈したもので、小牧市歴史館となっている。

 

『日本城郭大系』より引用。

 

城の歴史

永禄6年(1563):織田信長が斉藤氏を攻める為に小牧山に築城。

 

永禄10年(1567):織田信長が斉藤氏の稲葉山城を攻略し、小牧山城から居城を移す。

 

天正12年(1584):小牧・長久手の戦いの時に徳川家康が、小牧山城を大改修して自陣とする。

 

江戸時代:尾張徳川家の領地として入山禁止となる。

 

所感

●後世に安土城を造った信長の原型の城。

 

●大手道もあり、近世城郭の発端となる。

 

●山全体が要塞化されている、おそらく小牧・長久手の戦いの時に徳川家康が大改修した時のものだと思われる。

 

●山頂本丸部分は数段ではあるが巨石を使った石垣がある、この当時はまだ高く積み上げる技術が無かったので数段のみ。

 

関連URL

【愛知県】犬山城【犬山市大字犬山字北古券】

小牧・長久手の戦いの時に豊臣秀吉軍に奪取された犬山城。

【愛知県】清州城【清須市清洲字古城】

織田信長が小牧山城に居城を移す前の居城。

 

参考URL

小牧山(ウッキペディア)

城郭放浪記(尾張小牧城)

小牧・長久手の戦い(ウッキペディア)

 

参考文献

『愛知県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/10/30

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