城データ

城名:吉田城

別名:今橋城

標高:12m

比高:12m

築城年:永正2年(1505)牧野成時(古白)によって築かれる。

城主:牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏、山形水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本庄松平氏、大河内松平氏

場所:愛知県豊橋市今橋町(豊橋公園内)

北緯:東経:34.770223/137.393384

吉田城はここ

 

 

攻城記

川毛口門からスタート。

土塁跡。

評定櫓跡。

堀を降りてみる。

そこから見上げた石垣。

堀底から。

実はこの部分は隠れスポット。

石垣も古いタイプ。

堀底にあった瓦片。

行き止まりまで来た。

いよいよ中心部に入る。

土塁跡がしっかりと残っている。

川方面に向かう。

降りていく。

この方向のアングルがやはりいい。

迫力アングル。

いろんな吉田城を紹介されるサイトで有名なアングル。

刻印のある石垣。

天守閣は実際には大きくない。

天守閣から川面をみる。

天守拡大。

閉館しており残念だった。

吉田城略史

吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。

 

以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。

 

しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。

 

この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。

 

石垣と刻印

大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数ヶ所だけで他は土塁であった。

 

本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。

 

野面積み(自然石を砕いて、そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない池田輝政時代の石垣だといわれている。

 

さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られているが、これがいわゆる「石垣刻印」と呼ばれているものである。

 

刻印は、大阪域や名古屋域などにもみられ、築城工事を分担した大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。

 

因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。

 

在りし日の吉田城。

吉田城の鏡石。

豊橋公園正面。

 

余湖図【吉田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

吉田城

豊川と朝倉川の合流する丘陵の地に初めて城を構えたのは、一色城(豊川市牛久保町)城主の牧野古白(成時・田三・伝蔵)で、往時は今橋城と祢し、室町 末期の永正二年のことという。

 

今橋城を『牛窪記』には吉祥郭、『宮島伝記』には峯野城、『今橋物語』には 峯野城・歯雑城とある。

 

永正三年八月、今川氏親は駿遠三豆相五か国の兵で今橋城に入り、松平氏攻略の基地とした。

 

『寛永諸家系図伝』には「伊勢新九郎代、今川帥五箇国兵発向参州古白属今川八月二十日新九郎卒東三州国努於天矯辺与松平親忠大戦、入夜新九郎還三吉田城置三東三州制法収」兵而還駿河」とあり、  『三河物語』には、この時、今川氏に従った東三河の諸将は、今橋の古白、一色の牧野、二連木の戸田、西郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺(田峯)・野田の菅沼、設楽・嵩山の西郷、伊奈の本多などで、田原の戸田憲光は参陣しておらず、戸田氏に背後を襲われるのを恐れた伊勢新九郎は兵を引き、ここに今川氏の三河 侵攻は失敗した。

 

その年の九月、逆に松平長親は今橋城を攻め、これを『寛政重修諸家譜』は、 「九月、長親君数千の騎を率ゐて吉田城を攻めたまふ、十一月三日城中勢ひ屈 して士卒散走し残兵わずかに七六十、城を出て相戦ひことごとく討死す」と記し、『徳川実紀』にも同様の記述があるが、今橋城落城については異説もあり、 『藩翰譜』や『牛久保密談記』は今川氏親の攻略としている。

 

『藩翰譜』には、 「牧野古白三河国今橋の城にありて、同国田原の住人戸田弾正忠憲光と地を争 、今川治部大輔氏親戸田の為に加勢し、永正三年七月に駿河国を立 網の城におしよす、牧野終に戦ひまけ同き十一月三日腹切て死 戸田にとつて替る」とある。

 

『牛久保密談記』には、「今橋城主牧野左衛門成時堅 固に守て殊に今川氏親と成時は和歌の好といひ水魚の交を成へきに如何なる人の讒にや永正三寅三月十九日氏親大軍を率し今橋の城を十重廿重に取巻責らる 城兵防戦すといへとも小勢故力不及大将成時は死の体にもてなし小舟にて瀬木 の砦へ落玉ふ」とある。

 

牧野氏は今橋城築城以前は一色城を基点とし、今川氏の対松平氏の重要拠点 を守備した幕下であった。

 

その牧野氏が一色城を温存したまま、今川領内に攻 め入るかたちで今橋の地に城を構え、さらにその翌年には、構築を命じたはず の今川氏によって攻められ、落城するということがあるであろうか。

 

その頃、松平氏は尾張をうかがっていた。尾張を手中にするには、背後の牧野氏へ並々ならぬ配慮をしたものと思われる。

 

今川氏親と田原の戸田氏とは相対抗していて、先述したとおり今川氏の三河侵入の際にも従わず、その背後を突かれることを疑われて兵を引いた今川氏が三河合戦の二か月後に戸田氏のために牧野氏を攻めることは考えられず、松平の長親攻撃に対して、松平氏に寝返った古白を氏親が攻めたとも考えられる。

 

牧野古白の討死後、戸田憲光の次男である金七郎が城主になった。

 

『当代記』に「古白終に腹を被切、城は田原江被出弾正二男金七是に令在城」とあることから、今川氏と戸田氏との合議のうえで、今橋城を攻めたとも考えられる。

 

ともあれ、その後、戸田氏と牧野氏は今橋城の争奪戦をくり返したが、駿河 の太守今川義元がこれを収め、三河支配の拠点として城代を置き、従来の今橋の地名を吉田と改めた。

 

永禄三年(一五六〇)五月、この今川義元も桶狭間の合戦において敗死すると、 その機を見て徳川家康は東三河の攻略に乗り出し、同八年三月、酒井忠次を先鋒として吉田城を攻め、城代の小原肥前守鎮実を駿河に追い、今川氏の三河に これ以後、吉田城をめぐる合戦はない。

 

天正十八年(一五九〇)八月、家康の関東移封に従い、城代酒井忠次とその子家次は下総国日弁城に移り、その後に岐阜城より池田輝政が十五万二千石で入 封したが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦ののち、播磨姫路に移封した。

 

江戸幕藩期に入り、竹谷松平氏が二代、深溝松平氏二代、水野氏二代、小笠原氏四代、久世氏一代、牧野氏二代、大河内(長沢)松平氏一代、本荘松平氏一代と続き、そして再び大河内松平氏が七代続いて明治に至った。

 

吉田(豊橋)藩 主は、代々三万石から八万石の大名であったが、いずれも譜代大名であった。

 

さて、吉田城の繩張りは輪郭式の変形で、いわば半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものである。

 

この繩張りは、城の背後が河川や海・湖・沼などの要害 で、前面に二の丸・三の丸・総郭を配した城をいうが、吉田城が、豊川や朝倉川を背に本丸を基点として、二の丸・三の丸・総郭を前面に配した縄張りは、 その典型といえる。

 

ただし、この繩張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の 陣となり、逃げ場を失い、さらに背後からも舟などで渡河され、本丸を直接攻 撃されやすいことにある。

 

そのため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとして、弱点を補っている。

 

ところで、中世における吉田城の縄張りがどのようなものであったのか、それを裏付ける史料はない。

 

唯一のそれは、『牛窪記』に、「馬見塚ノ岡ヲ引ナラ シ数千ノ人夫ヲ集メテ」とあり、塚・岡の名称からも、実際にはそれほど広い 場所を指したものではなく、起伏のある台地を生かし、谷を自然堀とした程度 のものであったろう。

 

牧野古白の構えた今橋城の本郭がどの地点にあったのかは実証できないが、 現在の本丸跡の東、金柑丸跡を中心とする一帯が、往時の本郭であったと推定される。

 

牧野古白城以後の中世の吉田城は、曲輪配置はもとより、規模そのものさえ明確ではなく、このように推測の域を出ないのが実情である。

 

永禄八年、徳川家康が吉田城を攻め、これに対して今川氏の城代小原肥前守鎮実は豊川を渡って兵を出し、徳川勢もこれに応じて合戦となった(『松平記』)。

 

これは小原鎮実の勇猛の故か、あるいは当時の今橋城がかならずしも籠城に適した城でなく、寄せ手に渡河させないためには、みずから打って出る必要があ ったからで、本来は防備上の役目を果たすべきこの川が、城の安全圏を保障す ることのできないもので、未完成の城ではなかったかともいわれている。

 

そして、吉田城は家康の領するところとなり、酒井忠次が入封し、子家次と 二代二十八年にわたって在城し、三河・遠江境の重要拠点として、徳川氏には 要の城となった。

 

その後に十五万二千石で入封したのが池田輝政である。この石高をもってすれば、また豊臣秀吉幕下の輝政としては、当時の吉田城が、それにふさわしい 規模ではなかったであろう。

 

そのため輝政は城地の拡張・整備に着手した。今日明らかなものでは、札木町の地にあった熊野権現社を魚町に移し、同社境内 にあった脇宮の白山社を今の広小路に移している。

 

また牧野古白が今橋城築城に際し、牛久保村長山から連れてきて今の八町に居住させていた鍛冶職人を新吉町に移住させ、酒井忠次が架設した豊川の橋も下流の船町に移したのである。

 

従来の城地を南から西にかけて拡張し、追手の位置も江戸期の位置(今の大手 通り)に移し、小規模であった吉田城を東西一二〇〇m、南北七五〇mという 十五万石余の大名の居城にふさわしい大規模な繩張りにしたのである。

 

しかし、その輝政にしても完全に整備しきれないまま姫路に移封し、その後の歴代城主もみな中小藩主にとどまり、この広大な城地を維持・整備できなか ったので、後世「吉田城は明治に至るまで未完成の城であった」といわれるのであろう。

 

『日本城郭大系』9より引用。

 

城の歴史

永正2年(1505):牧野古白が今川氏親の命令にて築城。

 

永正3年(1506):牧野古白が討死し田原城の戸田氏と争奪戦を繰り広げる。

 

享禄2年(1529):松平清康が吉田城を攻略し戸田氏を屈服させる。

 

天文4年(1535):松平清康が横死して、松平氏の家臣が城から撤退して、松平氏の家臣ではない牧野成敏が城主となる。

 

天文6年(1537):戸田氏が牧野氏を追いやり城主に返り咲く。

 

天文15年(1546):今川氏が戸田氏の居城である吉田城を攻めて落城させる、これにより今川氏がこの地域を支配するようになる。

 

永禄8年(1565):今川氏から離反した松平家康により攻略して、松平氏の支配下となる、このころ城主は酒井忠次となる。

 

天正18年(1590):徳川家康が関東転封となり、酒井忠次は転封となる。代わりに池田輝政が15万2千石で入部する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦功で池田輝政が姫路に転封となる。(未完成のまま転封する)

 

 

所感

●戦国時代の城として松平氏、今川氏との攻防で城主もコロコロ変わった城。

 

●実際に現在の姿になったのは池田輝政の大改修。

 

●堀も深く、昔は城域も広かった為難攻不落の城ではなかったか。

 

●川から見た城は雄姿として印象深い。

 

関連URL

【愛知県】田原城【田原市田原町巴江】

田原城の戸田氏とはいがみ合っていた。

 

参考URL

吉田城(ウッキペディア)

城郭放浪記(三河吉田城)

 

戦国時代の城主、城代

牧野古白(ウッキペディア)

牧野成敏(ウッキペディア)

戸田宣成(ウッキペディア)

小原鎮実(ウッキペディア)

酒井忠次(ウッキペディア)

池田輝政(ウッキペディア)

 

参考文献

『愛知県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/10/30

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