城データ

城名:徳島城

別名:渭山城、渭津城

標高:62m

比高:60m

築城年:至徳2年(1385)細川頼之によって築かれる、天正13年(1585)に蜂須賀家政により大改修され現在の形になる。

城主:細川氏、蜂須賀氏

場所:徳島県徳島市徳島町城内

北緯:東経:34.075413/134.554818

徳島城はここ

 

 

攻城記

蜂須賀家政公がお出迎え。

麓の石垣。

登っていく。

東二の丸跡。

周辺石垣。

圧倒的な雰囲気と苔むした感が好き。

木漏れ日の中の石垣。

本丸跡

徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。

 

本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。

 

本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山城番の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。

 

 

櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。

 

また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。

 

 

本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。

 

東二の丸には三層の天守が設けられていました。

 

一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。

 

天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。

 

西二の丸には鉄砲櫓と帳櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。

 

西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。

 

本丸は広いが特段何もない。

降りていく。

往時が偲ばれる。

弓櫓跡。

 

西側方向の曲輪。

ベストアングル。

西二の丸跡。

櫓跡。

西三の丸跡。

西三の丸からの風景。

麓まで降りてくる。

矢穴のある鏡石。

鷲の門。

数寄屋橋。

庭園、徳島城の山を借景している。

 

余湖図【徳島城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

徳島城

徳島城は徳島市城ノ内渭山(猪山とも書く。通称、城山)の海抜六一・九皿の 山上に築かれ、城主の居館は山麓の現在千秋閣(徳島城表御殿)庭園のある位置 にあった。

 

至徳二年(元中二)に細川頼之が禅僧絶海中津と共に国内をめぐって現在の徳島に来た時、その地形を見て山水の美に感じ、まるで絵で見た中国の滑水の景色そのままであると嘆称して、ここに小城を築いて濡津と名づけ、家臣の三島外記に守らせたといわれている。

 

当時、板野郡勝瑞城から見ると、渭山は勝瑞から一宮を経ずに直接に南方に行け、また勝瑞から一宮城に側面攻撃を加えることができる重要な位置にあり、 名西・名東両郡の諸将への攻撃地点としても軍事的価値が大きかったと思われる。

 

なお、三島外記については『大日本史』に「三島外記は細川頼之の家臣なり、 勇壮にして,謀あり、兼ねて武技に長ず、頼之甚だ之を愛し、引て共に事を議し、待つに寶友の礼を以てす、三島深く其恩に感じ、頼之死するに及んで腹を割きて之に殉ず」とあり、三島の人物がしのばれる。

 

三島外記殉死後の城主は不明であるが、永禄年間(一五五八-七〇)、細川氏は部下の森氏に富田郷を支配させ、山上の渭山城に居城させた。元亀・天正(一 五七〇ー九二)の初期、その子孫の阿波郡切幡城主森飛騨守高次がこの城を領有し、番手を置いてこれを守らせた。

 

家系は蘇我氏で、紋は丸ノ内ニ上羽ノ蝶、 知行は三百貫であった。

 

天正七年(一五七九)十二月二十七日、岩倉城主三好式部少輔に欺かれて、脇城外で美馬助七直次に討たれた。

 

天正十年八月上旬上旬、長宗我部元親が二万余の兵を率いて甲浦から阿油 八月二十六日には上八万町下町を経て北進し、中富川左岸(板野 田付近の吉野川)の攻撃を準備した。

 

この日、元親勢の一部は勝瑞城主十河存保の少数の監視部隊を駆逐し、この城を占領したものと思われ、九月二十一 日の勝瑞城の開城後、元親は吉田孫左衛門康俊を城番として配置し、土佐へ帰った。

 

その後、同十三年の豊臣秀吉による四国征伐に際して、康俊は城を捨てて走ったという。

 

豊臣秀吉の四国征伐によって、阿波が平定され、蜂須賀正勝がその功労によ って十七万五千七百余石をもって阿波(置塩領・兵橘領を除く)に封ぜられたが、 老年であることを理由に辞退し、秀吉の幕下で仕えることを希望したので、秀吉は正勝に代わって、その子家政を同年八月十日、阿波に就封させた。

 

家政は二十八歳の若さで阿波に来て、初めは一宮城にいたが、秀吉の命令で 名東郡富田庄渭山の城郭を修築して移ることになった。

 

武器と戦術の進歩も一 因であったが、主因は領主権の確立にあった。つまり、一宮城は三方が山であり、要害堅固であったが、狭隘なため、一国の支配者のおるべき地ではないと、 家臣間にもさまざまな議論もあったらしい。

 

また、その選地にあたっても家政と武市信昆(のち太田氏を嗣いだ太田常三という)との間に意見の相違があったらしく、『蜂須賀蓬庵』に、つぎのような記事が載せられている。

 

「時に武市信昆いさめて曰く、此の地形を察するに北に助任川あり、而も其の 水百年も経なば枯れて平地となるべし。一旦の急に臨みて防禦甚だ不利なり、臣国内をあんずるに勝浦郡千代田・日峯山の両所要害堅固にして城地となすに足る。願くは其の一を択ばんことをと。家政笑いて聴かず、日く汝の言は然ら ん。されど今より百年を経なば、世は当に泰平に属し、武備を須ふるの要なかるべし。地利をたのまんよりは寧ろ人和を頼むの安きに如かず、と遂に猪山に築くに決す」 とあって、山城よりも平山城を選択した理由がわかる。

 

ここは、阿波の北方と南方との交接点にあたり、後背地に吉野川流域の平野 くい を持ち、東は紀伊水道を隔てて海路大坂に直結し、西に鮎喰川、北に吉野川、 南に園瀬・勝浦などの川があって、四方を河海でめぐらした三角洲上の要害の 地であり、領国支配の要衝としては阿波随一のところであった。

 

徳島城の城郭修築にあたって、家政は林図書頭能勝(道感)、武市信昆(太田常三)に城の繩張りを命じ、豊臣秀吉は小早川隆景・長宗我部元親および比叡山の僧徒に城郭修築の援助を命じている。

 

そして同年十一月から六百余日を費やして竣工したという。

 

城郭は渭山・寺島両城を合わせて一城とした平山城式 屋形造りで、城東に寺島川と城山山麓東南の突角部(貝塚付近)とを「コ」の字 形の堀川で連絡して内堀とし、大規模に拡張して、福島を大手(追手)、寺島を からめて 搦手としたもので、助任川・新町川・福島川を外堀に利用し、本丸は城山の山 上に、御屋敷は山下に設けられていた。

 

徳島城は明治二年(一八六九)六月に、版籍を奉還したが、すぐ徳島藩ができ 知藩事の政庁に当てられた。ついで同六年(一八七三)、陸軍省の管轄に移り、広島鎮台の管下に属することになった。そして同八年(一八七五)には、各藩にさきがけて取り崩したが、石垣や堀をそのままにして、表門の鷲の門も記念に残された。

 

『日本城郭大系』15より引用。

 

城の歴史

至徳2年(1385):細川頼之によって築かれる。

 

永禄年間(1558~70):細川氏は部下の森氏に富田郷を支配させる。

 

元亀・天正年間(1570~92)の初期:森飛騨守高次がこの城を領有し、番手を置いてこれを守らせる。

 

天正7年(1579):森高次は三好氏に攻められ美馬助七直次に討たれる。

 

天正10年(1582):長宗我部郡の侵攻にて落城される。

 

天正13年(1585):豊臣秀吉の四国征伐にて落城して蜂須賀家政が所領することになる。

 

慶長5年(1600):家政は東軍につき阿波一国が与えられる。

 

慶長20年(1615):淡路を加増されて257,000石となる。

 

城主石高

森飛騨守高次時代:300貫

蜂須賀氏時代:257,000石

 

 

所感

●城の石垣が特徴的で石材の材質は緑簾石である。

 

●天守が本丸になく、東二の丸にあったという珍しい城。

 

●江戸時代を通じて蜂須賀氏が治めていた。

 

関連URL

 

参考URL

徳島城(ウッキペディア)

城郭放浪記(阿波徳島城)

蜂須賀家政(ウッキペディア)

武家家伝(蜂須賀氏)

 

参考文献

『徳島県の地名』

『日本城郭大系』15

公開日2021/10/24

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