城データ
城名:和歌山城
別名:虎伏城、竹垣城
標高:49m
比高:40m
築城年:天正13年(1585)羽柴秀長によって築城される。
主な城主:羽柴氏、浅野氏、徳川氏
場所:和歌山県和歌山市一番丁
北緯:東経:34.227522/135.171152
攻城記
城内に進んでいく。
立派な切込ハギ。
流石徳川の城。
和歌山城の石垣は多種類ある。
算木積みではないので古い時代の石垣か。
城内は広大であった。
石材の質も違う。
二の丸。
苔むした石垣が良い。
この部分は算木積みになっている。
和歌山城の石垣の中でも注目したい場所。
隅の石垣の角度が広い。
上からのぞくとより分かる。
刻印。
上からみた風景。
高い。
石垣好きにはたまらない。
和歌山城埋門いざという時に脱出するための門。
石落としもしっかりある。
天守閣に進む。
天守閣から。
和歌山城のジオラマ。
立派な天守閣。
一番立派な石垣。
岡口門
ここからの和歌山城もいい。
open-hinataより【和歌山城】
余湖図【和歌山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
和歌山市の中央に、白亜三層の天守と櫓が、木立ちの間から見える。
この森間に一歩入れば、周囲の騒音が消え、緑と石塁が眼前に広がる。
そのながめは、万葉の和歌の浦の昔を思わずにはいられない美しさがある。
ここを訪れる人は、秀吉が当吹上の峰に築いた城 を、和歌の浦の景勝に匹敵するということで、「和歌山」と名付け たゆえんを理解することができるだろう。
天正十三年、豊臣秀吉は、紀州平定に乗り出した。織田信長の死後、秀吉と家康の仲が不和となった時、家康は、強力な軍事力を誇 る太田・雑賀・根来を味方に誘ったが、彼らはこれに従わず、両者が和睦してのちも、三党は連合軍を結成して、秀吉への反抗 血判状で示した。
これが、秀吉に紀州征伐を決意させた直接原因である。
天正十三年三月、秀吉は、秀長・秀次を副将として六万の大軍を率いて、寺領七十二万石、三万に近い僧兵を養い、泉州にも城砦を構えていた根来衆徒焼 き討ちに出陣させた。
この功績を認められた秀長は、紀州平定後、秀吉から和泉と紀伊の二国を与えられた。
秀吉は、弟秀長の城を築くため、紀州若山に赴き、普請奉行に藤堂和泉守高虎、羽田長門守一庵法印を命じ、小丘「吹上の峰」にみずから繩張りを開始し 。
そして、城を「若山城」と名付けた。
若山城は、のち和歌山城と改められたが、虎伏城とも竹垣城ともよばれて親しまれた。
虎伏の名は、和歌山城のある丘が、虎が伏したような形をしているので、虎伏山と称したことに始まるとも、築城工事に際して、お虎という女性が人柱になったという伝説にちなんだ ものともいわれる。
また、竹垣の名は、虎にちなんで称されたという。
けれど も、これは三の丸が外からみえぬように土塁を築き、その内外に竹を植えたため、天守閣がまるで竹林でめぐらされているかのようにみえたので、竹垣城の名がつけられたというのがもっとも妥当な説のようである。
天正十三年三月二 十一日、鍬初めがあり、年内には本丸・二の丸の工事を終えた。
当時、秀長は 大和郡山に居城していたので、彼の重臣桑山理亮重晴を城代とした。
同十九年 に秀長は没し、養子秀俊が跡を継いだが、桑山重晴はそのまま城代として残った。
したがって、和歌山城史では、この期を桑山時代とよんでいる。
慶長五年(一六〇〇)、浅野幸長が関ケ原の戦の戦功により、三十七万石をもらって当地に入城した。
桑山氏は、この時、城を明け渡して泉州谷に退去した といわれている。
幸長は、早々に内堀・石垣などの城増修工事に取りかかった。
元和年間(一六一五―二四)、幸長の弟長晨の代に広島へ国替えとなって、代 わって和歌山城には、徳川家康の第十子頼宣が、五十五万五千石を賜わって入城した。
入城に際し、将軍から、城の石垣などを思うままに普請せよといって、 銀二千貫を賜わったというからたいへんな優遇ぶりであった。
そこで、 元和七年に、城の規模を拡張した。
従来東南の岡口門を大手としていたのを、北 ノ橋口に改め、さらに、南の丸を繩張りして、高石垣を築いた。
この工事があまりにも大規模だったためか、幕府の疑惑を受けたが、この時は、城代家老安 藤直次(帯刀、田辺城主)の弁解によって事なきを得た。
のち寛永六年(一六二九)にも、南の丸櫓台、吹上口石垣などを普請して、正保年間(一六四四~四八)には、城下町の拡張に着手した。
城下の南、新堀付近 から水軒浜まで新しい外堀を作って、城の要害にしようとした。
だがふたたび 幕府に疑われ、今度はこの工事を途中で中止せざるを得なくなった。市内「堀止」の名は、この名残である。
有名な由井正雪の陰謀話が起きたのも、この時 で、慶安四年(一六五一)のことだった。
『日本城郭大系』11より一部引用。
城の歴史
天正13年(1585):羽柴秀長が築城開始、完成後は城代の桑山重晴が入城する。
天正19年(1591):羽柴秀長没。
慶長5年(1600):関ケ原の戦い以降浅野氏が35万石で入部する。
元和年間(1615~24)に浅野氏から徳川家康の十子である頼宣が55万石で入城する。
このころ大規模な改修を実施。
寛永6年(1629):南の丸櫓台、吹上口石垣などを普請する。
城主石高
浅野時代:35万石。
徳川時代:55万石。
所感
●徳川家の城として立派な石垣や天守閣があり、見学したい城上位に入る。
●石垣の種類も多く散策して全部見ると勉強になる。
●天守閣だけでなく、周辺を回って確認するとその強固な防禦力が分かる。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』11
『和歌山県の地名』
『和歌山県地名大辞典』
公開日2021/11/26