城データ

城名:岡城

別名:臥牛城、伏牛城

標高:325m

比高:100m

築城年:文治元年(1185)

城主:志賀氏、中川氏

場所:大分県竹田市竹田字岡

北緯:東経:32.969295/131.408007

岡城はここ

 

 

攻城記

立派な石碑がお出迎え。

 

わくわくが止まらない。

この石垣からすでに期待できる。

中世ヨーロッパな雰囲気のある城門。

アップ。

是非復元して欲しい。

麓を臨む。

きちんと整備されており気持ちがいい。

 

西の丸跡。

とにかく城域が広大。

西ノ丸御殿跡とある。

井戸跡もしっかりとした石組。

岡所の特徴は石垣の素晴らしさ。

当時はどんな感じだったんだろう。

数百年経っても崩れていないとこえおが凄い。

家老屋敷跡付近の城門。

このアングルたまりません。

ここに門があったという証拠が残っている。

別の角度から。

奥に進む。

家老中川覚左衛門の屋敷があったらしい。

手水鉢。

広大な敷地。

次に進む。

算木積みが綺麗な石垣。

よく画像である岡城の高石垣。

さらに奥に進む。

 

三の丸跡。

麓を臨む。

二の丸跡。

横矢になっている。

 

 

余湖図【岡城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

 

蘇溶岩の台地が長い年月にわたって浸蝕され、白滝川と稲葉川に囲まれるように取り残された四面絶壁の要害の地、岡の台地に城跡が 源平争乱の時代、豊後の豪族緒方三郎惟栄が逆境にあった源義経を迎えるために築城した。

 

義経は平家を討ち滅ぼした後、兄頼朝と不和になり、九州に下って緒方一 源氏に味方する者を頼ろうと大物浦(尼ヶ崎付近)を船出した。

 

しかし暴風 のため船は難破し、乗組みの者たちはばらばらになって大和へ避難した。

 

この とき、義経一行が豊後に到着していたならどのような結果をもたらしたか、お そらく歴史上の変化が起こったに相違ない。

 

元徳三年(元弘元、一三三一)、大友氏の支族、志賀貞朝が志賀城からこの城 に移り、城を拡張し塁を築いた。

 

この当時の岡城は現在の搦手・下原門が大手で、 ここから下った挟田・十川の村落が城下町で 十川には旧武家屋敷の石垣や、縁高によって大 水の屋敷割をしていた跡も残っている。

 

十川から 稲葉川を渡るところに「是よりたいまつともす声 くわへきせる堅く停止」と刻まれた石柱が立っ いる。

 

火災防止とともに岡城への道を敵にさとら れないように配慮したものであろうか。

 

挾田は商人が集まっていた商家町であったらし く油屋・酒屋などの跡があり、部落内の道路を 「ダイカン」と呼び、高台の畑を「エンショウグラ」というのも当時の名残であろう。

 

志賀氏十七代親次の天正十四年(一五八六)、島 津義弘の大軍が豊後に攻め入り、その将稲富新助 以下の精兵三万五千が大野・直入郡にある大友方諸城を攻め落とし、岡城を攻めたが多くの損害 を被ってついにこれを降すことができなかった。

 

島津軍の第一次岡城攻撃は天正十四年十二月二日から五日にかけて行なわれ 島津軍は入田宗和(小松尾 城主)の手引きで鳥岳城を降し、津賀牟礼城の戸次統貞を 降参させるとその勢いで岡城 の前面、片ケ瀬に陣を敷き、入 田宗和・長谷場兵部少輔。赤星備中守らの旧大友家の武将 を使者として降伏を勧告した。

 

志賀親次はこれを一笑に付し て退けたので、島津軍は一斉 に攻撃を仕掛けてきた。

 

親次 の狙撃隊は滑瀬川の川岸にか くされていた銃眼から敵兵を ねらい撃ちしたので薩軍は八 百人にものぼる死傷者を出し 三日目は夜間を待って渡河 作戦を行ない、一部の島津軍 は渡河に成功したが、たちまち伏兵に討たれ全滅してしま った。

 

四日目になると島津軍 の主力をもって総攻撃を開始、 三方から渡河作戦を展開したが城兵の右田中務・後藤遠江 守の反撃で川に追い落とされ、 死者が続出して敗走した。

 

さすがの島津の精鋭もつい に一時攻撃をあきらめ、稲富新助に兵五千を与えて親次の出撃を牽制させ、島津軍の主力は久住方面の白丹 南山城、都野の山の城攻撃に向かった。

 

岡城監視の役目を仰せつかった稲富新助は、島津義弘が久住方面に向かって 留守の間に岡城を攻め落として手柄をたてようと、無謀にも十二月二十四日、 、第二次岡城攻撃を開始した。

 

稲富は歩兵一千人に銃を持たせ、蛇淵の上に集結して、夜明けに一斉に渡河 しようとした。早くもこの動きを察知した城兵は敵の作戦の裏をかくことにし、 右田中務が正面から反撃すると同時に志賀掃部は川を迂回して渡り、敵の退路 を突いたので稲富軍は隊伍を乱して敗走した。

 

久住・都野方面に出撃していた島津軍の主力は南山城・三舟城・山の城を攻 略し、反転して再び岡城の前面に姿を現わし、天正十五年二月二十八日、矢文 をもって決戦を挑んだ。

 

親次は書面で「当城は川深く、橋も除いているので、 お望み通りの決戦ができず残念であるので、明二十九日この川の上流、小渡车礼にお出で下されば、当城から案内者を出し、当方からも鬼ケ城に出兵して、 勝敗を決しましょう」と返書した。

 

翌日、親次はみずから上角(魚佳)に出陣し、要所には中尾・大森・右田・志 賀掃部らの武将を配して秘策を練った。

 

志賀掃部は案内の兵を出し、約束通り渡し場を教えると、さっと陣中に引き 揚げた。島津軍は潮のように河を渡って鬼ケ城から山の半ばほどまで押し寄せ ると、親次の軍は合図の発砲によって島津勢に向かって総攻撃を開始し、これ までにない激しい戦闘となった。

 

地の利をもっている城兵は巧みに地形を利用し、少数兵力ながらよく大軍を 向こうにまわして戦い、中尾・大森の軍は敵の背後に回り込んで攻撃したので 島津軍は態勢が崩れ、またも川に追い落とされ死傷者五百余人を残して敗走し 島津軍は秀吉の軍の南下によって豊後から急いで退去したが、親次はこれを 追撃して県境の梓峠で攻め滅ぼした。

 

親次は島津軍に降伏した大野・直入郡の諸城をつぎつぎに回復して秀吉の感 状を賜わった。

 

文禄二年(一五九三)の朝鮮の役で失敗した大友義統が、秀吉に領地を没収され周防の山口に閉居を命ぜられると、志賀親次もまた城を去って、二百六十年 間にわたる志賀氏の時代は終わった。

 

親次は十七歳の頃から熱心なキリシタン 信者となり、教名をドン・パウロと呼んだ。

 

この領主の影響で岡領内には八千 人の信者があったという。

 

志賀親次の去った岡城には文禄三年、播磨三木城から中川秀成が入り、慶長 元年(一五九六)から城の増改築を開始した。

 

増改第というよりはむしろ新たに 西方の天神山を切り開いて本丸とし、さらに西方に二の丸を設けて志賀氏時代 の約二倍の面積となった。

 

さらに志賀氏の大手門を搦手とし、西方に大手門を 設けた。

 

城普譜と同時に、農家がわずかばかりある湿地を開いて「御城下町割御定め 丸山藤左衛門へ奉行仰せ付けられ、道の曲直、軍国の利を考え普譜を始む」と あるのが現在の竹田市のはじまりであった。

 

築城の方は奉行に石田鶴右衛門・三宅六郎兵衛・山岸金右衛門がなって始めたが、石垣が多くて難工事であったので七年間を費やしたという。

 

鉄砲狭間や弓狭間の白壁の塀が蜿々と連なり、三層天守、二の丸の月見櫓などがそびえる見事な城郭ができあがった。

 

本丸の西隅の一角にできた天守は一 階は間口九間、奥行八間、二階は間口六間、奥行五間、三階は間口四間、奥行三間 で四方に鉄砲狭間や矢狭間があり、三階の四方には幅五尺の縁と欄干があった。

 

本丸の東西にはそれぞれ二層の角櫓・多聞櫓・金蔵と天満社が祀られた。

 

二の丸の月見櫓は二階建て、階上は十四畳敷、階下は表座敷十二畳、裏座敷 が七畳半で、秋の名月の夜には藩主・家老職・側近などが集まって月見の宴を 催したものであろうか。

 

しかし平素は北方の見張所の役を果たしたようだ。

 

三の丸には藩主の邸宅があったが、万治三年(一六六〇)、三代中川久清(入山) のとき、西の丸を新築し、これに邸宅を移したので、その後には武具庫などが 建てられた。

 

城の歴史

文治元年(1185):緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城する。

 

建武元年(1334):大友氏庶流の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。

 

天正14年(1586):島津氏侵攻で岡城も攻撃にさらされるが、志賀親次の活躍で撃退。

 

文禄2年(1593):文禄の役で主君である大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去る。

 

文禄3年(1593):中川秀成が入部して大掛かりな改修を行う。

 

城主家系図

城主石高

中川時代:74,000石

 

所感

●素晴らしい石垣に惚れる山城。

 

●江戸時代に中川氏に大幅改修さえているので近世城郭としてその威容を誇る。

 

●是非とも大手門だけでも復元して欲しい。

 

 

関連URL

 

 

参考URL

岡城(公式)

岡城(ウッキペディア)

城郭放浪記(豊後岡城)

武家家伝(志賀氏)

志賀親次(ウッキペディア)

【戦国最強の城1位】岡城【空から攻める山城】ドローン空撮 attack the castle from the sky”Oka Castle”

 

参考文献

『大分県の地名』

『日本城郭大系』16

 

公開日2021/10/23

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