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城データ

城名:中津城

別名:丸山城、扇城、小犬丸城

標高:5m

比高:0m

築城年:天正16年(1588)黒田孝高(官兵衛)によって築城。

城主:黒田家、細川家、小笠原家、奥平家

場所:大分県中津市二ノ丁

北緯:東経:33.606612/131.186386

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

 

増築された石垣

現地点の道路は明治期に石垣を壊して通されたものです。本来ここに道はなく、道路の左右にある石垣と堀は続いていました。

 

津城の石垣は、築城当初は今より低く、幅が狭いもの堀側だけでなく、城内側にも石垣があったことがわかっています。

 

こちらの断面には、城内側の古い石垣が顔をのぞかせています。

 

下の写真で、①と表示してある石垣が築城当初(16世紀末頃)のものです。高さは根石から約5.85m、天頂の幅は約2.4m。

 

石垣には排水溝が造られており、城内の雨水は石垣の溝を通って堀へ流されていました。

 

排水溝の床面には丁寧に瓦が敷かれていました。

 

その後17世紀には現在と同じ約7mの高さにまで積み上げられ、さらに②→③→④と徐々に拡幅されていきました。

 

石垣の増築が城内方向だったため、堀に面した石垣は昔のままの姿を私達にみせてくれています。

 

中津市教育委員会

 

徐々に内部に進んでいく。

鏡石。

ど~んと構えている。

中津城といえばこのアングル。

ぐるっと天守閣を撮る。

 黒田本丸の石垣と細川時代の石垣 

右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。

 

左側の石垣は、 細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。

 

両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。

 

中津城が歴史に登場するのは、天正十五年(五八七)孝高が 豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。

 

軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。

 

同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。

 

孝高は、闇無浜から自見・大塚一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦などの功によって筑前 五十二万石への加増転封し中津を去った。

 

黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。

 

忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城 においた。

 

慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。

 

元和元年(六一五)一国一城令が出され、 忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。

 

小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌二年中津城の残置が決まった。

 

元和六年(六二〇)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌七年 中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。

 

元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年 本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

中津市教育委員会

中津の郷土史を語る会

 

この部分が黒田時代の石垣と細川時代の石垣が分かる場所。

このアングルの中津城はあまりない。

川沿いの石垣。

この付近は松の御殿があったらしい。

城内には奥平神社がある。

本丸正面。

天守閣から臨む。

本丸には奥平家の武具が展示されている。

 

余湖図【中津城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

中津城

天正十五年、黒田氏が中津の地に封ぜられ、大塚山の旧塁を修めて居り、山 国川に臨む丸山の低い丘を削って、翌十六年の正月から築城に着工、犬丸城の 旧材を用いて戦勝の記念(犬丸越中守清俊の犬丸城を攻め滅ぼす)としたので “小犬丸城”とも呼ばれた。

 

黒田氏がこの城を築く以前には中津江太郎の拠った小規模な城があったが、 これが大塚山の日量であろうか。

 

中津江太郎は応永四年(一三九七)、大友氏鑑 に従い田川郡・規矩郡に攻め入っている。

 

薩摩の島津軍が大友氏の本拠府内(大分)を攻略して、豊後・豊前にまで進出 する勢いに驚いた大友宗麟の訴えによって、秀吉は十五万の大軍を九州に差し 沖向けた。

 

この九州の役によって島津軍は退き、安定した豊前のうち、京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の六郡を黒田官兵衛孝高に与えた。

 

黒田氏の入国を喜ばない宇都宮・野仲氏一族、これに随従する宇佐・下毛の 諸将たちに対して孝高は討伐の軍を起こし、上毛郡日隈城を手始めに、川底城・ れ・福島城・犬丸城・大畑城を攻略して、野仲氏の籠もる長岩城を抜いた・

 

宇都宮氏に対しては、黒田・毛利の連合軍二万騎で攻めたが大敗して退いた。

 

そこで孝高は宇都宮鎮房と和を講じ、鎮房の娘を孝高の子長政に嫁がせることで停戦し、まず中津城の完成に力を注いだ。

 

城が完成した天正十六年、黒田長政と宇都宮千代姫の婚約成立を祝うため、 孝高は宇都宮父子を中津に招いたが、これがかねてからの謀略で、宴会たけな わの頃、城中にひそませていた武士たちは一斉に鎮房と従者を襲い、これを皆殺しにした。

 

さらに千代姫と従臣たち数十人を広津川原で磔にして殺した。

 

黒田長政は直ちに宇都宮氏の本城に攻め込んでこれを制圧したので、宇都宮氏はここに滅亡した。

 

慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦が起こり、黒田長政は徳川方として 津は孝高(如水)が守っていた。

 

朝鮮の役で失敗して改易となっていた大友義統は、旧領奪回の機会とばかり旧臣たちを集 め、石垣原(別府市)で 黒田如水に決戦を挑ん だが大敗した。

 

この関ケ原合戦ののち、黒田氏は筑前五十二万石に封ぜられ福岡 へ移り、その跡には細 川忠利が入城した。

 

このとき父忠興は小倉城 に入ったが、慶長九年、 忠興は剃髪して三斎と号して中津に隠居し、 忠利が小倉へ移った。

 

忠興は城の三の丸を増 築し、同十二年に完成した。

 

城の歴史

天正15年(1587):黒田孝高(官兵衛)が豊前に123,000石を与えられる。

 

天正16年(1588):中津城を築城し始める、また同年敵対していた城井鎮房を中津城内にて惨殺する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて東軍につき、筑前福岡に52万石で加増され転封、細川忠興が39万石で入部する。

 

慶長7年(1602):忠興は小倉城を居城として中津城は細川興秋になる。

 

慶長9年(1604):忠興が隠居して中津城に移る。

 

元和7年(1621):中津城完成する。

 

城主石高

黒田時代:123,000石。

細川時代:390,000石

 

所感

●日本三大水城の1つ。(残りは高松城、今治城)

 

●黒田時代と細川時代では石垣が拡張されており、城域時代も拡張されていると思われる。

 

●城は後世に再建されてが、往時のイメージもわかり良いお城。

 

 

関連URL

【愛媛県】今治城【今治市通町】

3大水城の1つ。

【香川県】高松城【高松市玉藻町】

3大水城の1つ。

 

参考URL

中津城(公式)

中津城(ウッキペディア)

城郭放浪記(豊前中津城)

中津城を知る

 

参考文献

『大分県の地名』

『日本城郭大系』16

 

公開日2021/10/23

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