城データ
城名:唐津城
別名:舞鶴城
標高:42m
比高:38m
築城年:慶長13年(1608)
城主:寺沢氏、大久保氏、(大給)松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏
場所:佐賀県唐津市東城内
北緯:東経:33.453864/129.978674
攻城記
唐津城本城。
唐津城石垣。
唐津湾。
虹の松原。
唐津城城内
余湖図【唐津城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
唐津城跡 唐津市東城内
唐津市街地北東の唐津湾に面し、松浦川の左岸に位置 する。舞鶴城ともよばれる。
築城以前は地切とよばれ、満島山とよぶ陸繋島の砂州地であった。
文禄二年(一五九三)ないし三年寺沢志摩守広高は唐津藩主に封ぜられ、慶長の役終結後は名護屋城も受領した。
広高は波多氏の旧城の田中城(現東松補郡北被多村)に居城し、 慶長七年(一六〇二)から同一三年までの七ヵ年をかけて唐津城を築いた。
築城について、「松浦要略記」は「名護屋御城の道具、 材木不残御引取被成候」と、石垣を除いて名護屋の資材を移したと記す。
また「諸大名御加勢前後五か年に当城 御築立慶長年中被移居」と「寺沢広高公以来御代々記」 に記され、「唐津城普請の事慶長七壬寅年より同十三戊申 年迄七年に成就也」(松浦記集成)という。
「松浦要略記」に は「本城山は満島山と申所より続き鏡村の支配にて有之 候。山東の裾低く大汐の時は汐越程に有之候を堀切今の 川口に相成申候、以前の川口は只今二の御門御堀より北 の御門外に流出居申候。
(中略)満島山へ神仏有之候を所々 に御移り被成候」とある。
広高は築城にあたり隣接の大 名の加勢を受けたが、薩摩堀・肥後堀・肥前堀の名称に その間の事情が物語られている。
唐津城は鏡村と切り離された満島山を本丸とし、東側 は松浦川を外堀とする。
本丸の城地は東西六二間、南北 七三間、本丸には城主の居住する御殿と米蔵等があった。
二の丸の城地は東西二四七間、南北一二二間で政庁があり、土井氏時代は藩校盈科堂や江戸在勤者の宿泊所や重 臣の屋敷があった。
三の丸は城地東西三一一間、南北三 二五間、二の丸と内堀で隔てられ、唐津神社や城下に時 を告げる時太鼓櫓があり、中堅武士の多くが居住した。
城内は石垣をめぐらし、海岸を除き濠堀が掘られた。
出入口としては三の丸の南側に大手門、西側に西の門、 北側に北の門・埋門が設けられ、本丸には船手門が松浦川岸に設けられた。
また本丸には天守台が築かれたが、 寛永四年(一六二七)のものと思われる隠密探索書では天守閣は存在していない。
明治四年(一八七一)廃城となり、同九年までに隅櫓のほ とんどは取り去られ、本丸跡は舞鶴公園となった。
本丸出段のホルトノキと藤は市指定の天然記念物である。
城の歴史
文禄4年(1595):豊臣秀吉の寺沢広高が唐津に封じられる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで東軍につき加増して12万3000石の大名となる。
慶長7年(1601):築城開始。
慶長13年(1608):完成。
城主石高
12万3000石
所感
●現在本丸一帯は舞鶴公園として整備されている。
●虹の松原と唐津城が良く似合う。
●石垣、曲輪など往時はしっかりと城だったと思われる。
関連URL
唐津城築城時に名護屋城の部材を使用している。
参考URL
参考文献
『佐賀県の地名』
『日本城郭大系』17
公開日2021/10/10