城データ

城名:白旗城

標高:440m

比高:400m

築城年:元文3年(1333)

城主:赤松氏(築城は赤松円心、則祐親子

場所:兵庫県赤穂郡上郡町赤松

北緯:東経:34.908183/134.380666

白旗城はここ

 

 

攻城記

さあ攻城開始。

長い道のりが始まる。

最初は平たんな道。

山麓には五輪塔群がある。

非常に立派なは墓で赤松氏縁の者の墓だと思われる。

やはり、赤松氏縁の寺(赤松円心の次男である貞範によって建立)

さあ今からが本番。

 

白旗城跡

白旗城跡は、標高440mの白旗山上にあり、南北朝時代の建武3年(1336年)に赤松円心が築城し、 新田義貞率いる6万の軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な山城です。

 

以後、 嘉吉の乱(1441年)により赤松氏が滅びるまで、白旗城は播磨・備前・美作3ヶ国の守護大名赤松氏の本城でした。

 

築城当時の白旗城は、合戦の際山上の屋根を削って、小人数で立てこもる臨時の防御施設として築かれたとみられますが、現在のこる城跡の一部は、城郭が大規模化していった戦国時代に集かれたものとおもわれ、全長約470m、本丸・二の丸・三の丸・糠橋丸・大手郭などの曲輪跡や掘切・土塁・石積などの防御施設がのこっています。

 

白旗城跡へは、近畿自然歩道を利用して赤松側と野桑側から登ることができます。

 

上郡町教育委員会

 

段々急になってくる。

このような石垣がかなりの高さまで積み上がっている。

城の遺構ではないと思われる。

石垣ではないと思われるが圧巻である。

石段があるがこれは当時のものか。

見下ろすととんでもない位の高さだと気づく。

やっとの思いで尾根にたどり着く。

石垣の跡か。

まだまだ先は長い。

櫛橋丸

櫛橋といえば黒田官兵衛の妻「光」の実家が櫛橋氏。

景色が良い。

長大な曲輪。

更に進んでいく。

やっと二の丸に着く。

二の丸跡。

しばらく歩き本丸に到着。

本丸もしっかり整備されており気持ちがいい。

しかも広い。

 

白旗城跡(赤松・細野・大富・野桑)

白旗城跡は、標高約440mの白旗山上にある南北朝~戦国時代(14~16世紀)の山城で、建武3年(1336)に足利尊氏に与した赤松円心によって築かれ、新田義貞率いる軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な城です。

 

以後、嘉吉の乱(1441年)で赤松氏が一旦滅びるまで、播磨・備前・美作の守護大名赤松氏の本城として固守されました。


現在のこる縄張の一部は、戦国時代前年までの改修を受けており、長さ約550mに及ぶ尾根上を中心に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷・桜門と伝えられる曲輪跡や、堀切・土塁・石積などの防御施設が残っています。

 

城跡へは、赤松・野桑の両側から近畿自然歩道を通って登ることができます。

白旗城跡は、感状山城跡(相生市矢野町)・置塩城(姫路市夢前町)とともに国指定史跡になっています。

 

何かの碑がある。

三の丸に進む。

三の丸。

土塁跡。

三の丸からの風景。

一旦戻り石垣のあり曲輪に行く。

この下から石垣が階段状にある。

大変すばらしい石垣群。

この曲輪は何の目的で石垣の多いところだったのか?

山岳寺院があったのかもしれない。

 

赤松居館跡

 

赤松居館跡は、東西約105m・南北約55mのほぼ方半町に削平された台地上の字「御屋敷」にあり、赤松円心の館跡と伝えられています。

 

史料によると、円心の三男・赤松則祐により赤松に守護の館が建てられ、後にその子義則によって修理されています。

 

その子孫の赤松政則も、一時赤松の旧宅に滞在しています。

 

東側の幼稚園建物(現「赤松の郷昆虫文化館」の建設前に行われた確認調査でも、土師器皿などの中世の遺物が出土していることなどから、この地は赤松代々の居館跡と推定されています。

 

上郡町教育委員会

 

 

五社八幡宮

 

松雲寺

白旗城の山麓にあった寺の後継寺。

 

 

赤松三尊像

開館されておらず確認できなかった。

赤松則祐の宝篋印塔(逆修か)

 

 

位置関係

かなり高いことが分かる。

 

 

余湖図【白旗城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【白旗城】

 

『中世播磨250の山城』(中世城郭研究家 木内内則)

 

城の概要

白旗城

白旗城は佐用郡と赤穂郡を縦断して瀬戸内海に流れ出る千種川中流の東岸、 赤松(旧佐用荘赤松村)にある急峻な白旗山山頂に所在する総延長 〇mの播磨国でもトップクラスの典型的な連郭式山城である。

 

旧赤松村は千種川の水運の一拠点として、また旧因幡街道の宿場村として古くから栄え、鎌倉時代後期の山陽道から約七・六㎞の地点にあり、山陽道随一の難所船坂峠から は約九・五㎞離れた位置にある。

 

そして白旗山頂は、その旧赤松村から約三㎞登った所にあり、標高四四〇mである。

 

一方、西側の旧鞍居村からも約三㎞の高所にあり、播磨国西端の最大の戦略的要衝に位置している。

 

築城者とその年代について『播磨鑑』には「源季房天永年間」とあるが、これは伝承にすぎず、『太平記』に記してあるように、赤松円心(則村)が築城したと認められている。

 

築城年代については正慶二年(元弘三、一三三三)で、後 醍醐天皇が北条氏討伐の義兵を募った時、赤松氏が、いち早く築いて本拠とし たという説と、建武三年(一三三六)に足利尊氏追討のため派遣された新田義貞を播磨に迎え撃つために築いたとの説があるが、『太平記』には「義貞軍を迎 え撃つため、白旗城を修理して立て籠もった」とあるから、築城は元弘三年と 考えられる。

 

白旗城は赤松氏にとって、メッカ的拠点であり、白旗城の歴史はそのまま赤 松氏の栄枯盛裏の歴史でもある。

 

『播磨鑑』や「赤松系図」が伝えるところで は、赤松氏の祖は季房といわれ、その季房が罪を得て加古郡の館にあった時、 高山に白旗が下りて来る夢をみた。

 

そして後日、佐用荘赤松を旅したところ、 赤松にある山が夢でみた山とそっくりなので、「白旗山」と名付け、赤松氏を名り、城を「白旗城」と名付けたというが、赤松氏は播磨の土豪で、みずからを源氏の子孫といいたかったのであろう。

 

この城は赤松氏の本城として初代円心から満祐まで同族のメッヵ的な存在であった。

 

そのため嘉吉の乱(嘉吉元、一四四一)の時、満祐はこの城を死に場所 に選びたかったのか、姫路の書写坂本城を脱出して白旗城をめざしたが、山名軍によってすでに落城したことを知り、やむなく新宮町の城山(亀山城)に入り、 滅亡した。

 

また『太平記』が伝えるところによると、新田義貞が赤松氏討伐のため、白旗城を大軍で囲み、盛んに攻撃したが、赤松軍が難攻不落の「白旗城」 をよく守り、約五〇日持ちこたえた。

 

赤松氏は室町幕府の重臣として、栄光の時代を迎えたが、満祐の弟赤松義雅の孫政則の時、赤松氏の本城は置塩城に移され、白旗城は本城としての使命を終えた。

 

時代は下って織田信長の頃の上月城の落城の際、上月氏(赤松家支流)の一武将が上月城を脱出して白旗城に向かったが、途中、毛利軍に討たれたと伝えられている。

 

白旗城は本丸を中心郭とし、北に三の丸、南に二の丸、そして堀を隔てて四 の丸が一直線に並んだ配置となっており、大型の城である。城郭戦に備えて郭 を多極化した複雑な構造を持つ戦国時代後期の有力国人・土豪の居城と比べてみると、直線的梯郭式の城で、播磨における中世的城郭の代表的な城といえる。

 

本丸は一番高所にあり、三三m×二一・五mの広さで、ここに現在、城跡碑が建ち、南に段状の郭が四つあり、本丸から南約二〇〇mの所に二の丸があり、 そこは一八m×一八』の方形状である。

 

また、それから南へ郭が延び、九〇m ほどの地点に堀切があったと思われるが、現在は埋められ、その堀を越えて見張所的な四の丸がある。

 

一方、北へ五段ほど下り、また三段上ると、三の丸と なっている。三の丸は二八m×二八mの方形郭で、一部に土塁が残っている。

 

型的な直線的梯郭式山城で、水の手には以前、水があったが、現在は埋まってしまっている。

 

浅野文庫所蔵の「諸国当城古城之図」の中に,”播磨の国白旗城”の図として、 江戸時代末期に実測したと認められる正確な古図が残っている。

 

その古図と最近実測された図を比べてみると、大正年間に赤松村の青年団が公園化するため、 堀切など一部に手を加えているが、ほぼ旧状を残しているといえよう。

 

立地状況からみて、白旗城は有事籠城型の城であり、平時の政治執務や日常 生活の”場”は山麓の平地にあったものとみられる。

 

白旗山登山口から約一㎞西方の赤松に「円心屋敷跡」と伝承される高台平地があり、二方が土塁に囲まれ、後方は崖で、前方は水路に面して「御屋敷」ともよばれる場所がある。

 

現在、その一角に保育園が建っているが、この付近に赤松一族の館があ ったらあしく、「トノヤシキ」などの地名も残っている。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

本丸看板より。


白旗城年表

1336年(建武3年):赤松円心、白旗城を築城。新田義貞の軍勢に対して50余日の籠城戦に耐える。その功により円心、播磨守守護に。

 

1361年(康安元年):南朝の軍勢京を占拠。赤松則祐、足利春王丸(後の3代将軍義満)を白旗城に迎える。

 

1427年(応永34年):赤松満祐、4代将軍義持と対立して下国。白旗城に籠城準備。後に和解。

 

1429年(正長2年):満祐、播磨国の土一揆鎮圧後、白旗城跡に白旗降下の瑞兆を報じ、勅使の下向を乞う。

 

1441年(嘉吉元年):嘉吉の乱。赤松氏城山城に一旦滅亡。白旗城も落城か?

 

1454年(享徳3年):赤松則尚、播磨奪回を目指し白旗城に陣する。

 

1499年(明応8年):守護代浦上則宗とその部将宇喜多能家、白旗城に籠城、浦上村国と合戦。

 

1520年(永正17年):播磨守護赤松義村、守護代浦上村宗と対立し、白旗城に陣する

 

城主家系図

所感

●とにかく比高が高く、登るだけでも大変な山城、これでは新田軍も攻略できないのも分かる。

 

●城はもともと山岳寺院があったと伝えられておりその部分も改修して城としていると思われる。

 

●赤松家としては発祥の地の城で重要な城であった。

 

関連URL

【兵庫県】感状山城【相生市矢野町森】

赤松則祐の居城で新田軍に攻められた時にこの城から白旗城に移動する。

 

参考URL

白旗城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨白旗城)

西国の山城(白旗城)

白旗城(上) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

白旗城(中) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

白旗城(下) | 山崎整の西播磨歴史絵巻 – ラジオ関西

赤松氏(ウッキペディア)

武家家伝(赤松氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/25

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