城データ
城名:徳久城(とくさじょう)
別名:柏原城
標高:320m
比高:200m
築城年:健保年間(1213~19)
城主:柏原氏、間島氏
場所:兵庫県佐用郡佐用町東徳久
北緯:東経:35.010893/134.419462
攻城記
徳久城遠景。
攻城開始。
比高も200mあり急峻。
先は長い。
先端部分の曲輪に到着。
曲輪は細長く階段状になっている。
曲輪が多いのも特徴。
本丸。
本丸では柏原城がメインで表記されていた。
本丸周辺部。
東に下っていく。
東にも階段上の曲輪が多数ある。
降りた曲輪から上を見上げる。
堀切。
ここもかなり堀切で区切っている。
くっきり分かる。
木々の隙間から麓を臨む。
下山途中の徳久の風景。
位置関係
余湖図【徳久城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【徳久城】
城の概要
徳久城
殿崎集落の東方にある標高三八〇mの峻険な山頂に徳久城がある。
山頂の本 丸跡は一二m×二一mの平坦地で、ここに達するには北から三つの空堀を経て、 さらに八つの崖と郭跡を通過せねばならない。
南と西に延びる尾根上にも多くの空場と郭跡が残っており、尾根と尾根の間はいずれも峻険な崖になっている。
築城者の柏原弥三郎為永は宇野氏の出で、父頼宗が宍粟郡柏原城主であったことから柏原姓を名のり、子の永利の代に嘉吉の乱(嘉吉元、一四四一)が起こり、山名氏によって滅ぼされたとされている。が、 年代が合致しない。
嘉吉 の乱まで柏原氏が健在だ ったとすれば、さらに数代続いたことが考えられ赤松氏の再興に伴い、 この城へは間島景網が入城し、天正五年(一五七七)の羽柴(豊臣)秀吉の 播野進攻の際、落城したといわれている。
『日本城郭大系』12より引用。
城の歴史
健保年間(1213~19):柏原弥三郎為永により築城。
嘉吉元年(1414):柏原永利の時に嘉吉の乱があり山名氏に滅ぼされる(ただし年代が合わない)
長禄元年(1457):この頃赤松氏が復興して、この城には間島景綱が入城する。
天正5年(1577):秀吉の侵攻により落城。
城主家系図
●柏原為永・永利は1200年代、嘉吉の変は1400年代なので200年の差(7~8代)は続いていると思われる。
●秀吉に攻められたのは間島景綱であるが、おそらく宇野則景の子どもである間島景能の子孫だと考えらえる。
所感
●宇野氏本拠である、熊見城から北東にある支城であり、柏原氏は惣領家を守る役割をしていたものと考えられる。
●遺構はしっかりと残っており、堀切など見ごたえある。
●本丸の北は急斜面になっておりこちらからの侵攻は不可と思われる。
関連URL
櫛田城城主である、櫛田佐馬助頼久(景則)の時代に羽柴秀吉軍が柏原城(徳久城)攻撃の際、救援に向かう途中戦死している。
徳久城の本城である米田城。
徳久城の支城である、矢能の砦。
参考URL
徳久は熊見の北側を守る枝城 西播磨歴史絵巻(51)「熊見城と徳久城」
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/25