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城データ

城名:米田城

別名:熊見城

標高:130m

比高:40m

築城年:文治年間(1185~90)

城主:宇野氏(築城者は山田伊豆守則景)赤松氏、得平氏

場所:兵庫県佐用郡佐用町米田

北緯:東経:34.987706/134.382265

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

現在本丸には建物が建っている。

城域は南斜面に長大な曲輪が存在している。

階段上に長い曲輪が断続的に築かれている。

曲輪を切っている堅堀(道)。

別の角度から。

画面に河原石があるが、投石用として持ってきたものか。

西斜面。

北方面。

 

位置関係

 

余湖図【米田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【米田城】

 

 

城の概要

米田城

米田城は別名を「熊見城」といい、南光町米田にある。

 

城跡は一五〇mの丘 の上にあるが、北は熊見川に接する峻険な断崖で、この方面からの登山は不可 である。

 

近年、山頂を整地して「城山会館」が建てられ、それに通 が設けられたため、遺構の東半分はほとんど消滅した。

 

が、西と南の部分は、 なお跡をとどめている。

 

山頂の部分は九m×一九・五mの平坦地で、 段式に平坦地が山をめぐっている。

 

堅堀が一本残っており、ま 座敷のあったといわれているあたりは現在、広い造成地となっている。

 

この城は、鎌倉時代初期に山田伊豆守則景が築城したといわれているが、 『佐用郡誌』には「赤松伊豆守則景の弟宇野新太夫為助の居城」と書かれ、また『赤松家播備作城記』には「佐用三郎左衛門尉範家(赤松季房六代孫也)が初めてこれを築き、建武年間(一三三四~三八)この城に居た」とある。

 

一方、得平謙三氏はその著『熊見城址』の中で、「則景が初めて築城したが、則景は高倉山に築城、次いで長谷の高山城を築いて移ったので、熊見城は則景の弟字野 為助がこれを完成させた」と述べている。

 

いずれにしろ、この城は宇野一族に よって引き継がれたようである。

 

『佐用郡誌』には宇野氏は「為助ー為頼ー範 重―範家」と続いたとしているが、『宇野氏系譜』は「為助―為頼ー景頼ー頼定ー宗清ー定明―国頼」と続いたとしており、こちらのほうが正しいのではなかろうか。

 

ところで、嘉 吉の乱(嘉吉元年 一四四一)に際し美作方面から攻めて来た山名教清の攻撃によってこの城は落城し、その後、 赤松氏の再興によって再び赤松 一族の居城となったが、文明六 年(一四七四)に 山名政豊に攻略 され、その後、 三度、同族の得平源三がこの城に拠ったが、宗 家の置塩城主赤松義村と争って落城した。

 

また天文七年 (一五三八)に能登守祐清が城主の時、尼子晴久に攻められ、敗れて尼子氏に従属した。

 

さらに永禄十年(一五六七)に尼子氏の居城上月城が毛利氏に攻められて落城したため、祐清は米田城を放棄して宍粟郡の篠の丸城へ逃げ、廃城になったといわれている。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

 

熊見城(米田城) 粘田字寺山にあり、この城は宇野一族の本城(大極城)であって、守護所的な政所城であったと考えられます。

 

宇野庄の中心部で、低い山ですが展望がよく、要害の地でありながら、ひとびとの城への出入りが容易なところで、戦だ けでなく、政治をするのにも適した場所です。

 

なお、この城は宇野庄のなかでは、規模が一番大きく、周辺には数多くの城砦を配置してい ます。

 

『佐用郡誌』によりますと、城主は、宇野氏 の祖といわれる新大夫為助で、周辺の城主もみな為助一族の名が見られることから、宇野庄の 支配は、この一族で行われたと考えられます。

 

城の北は千種川(熊見川)に直面した 断崖絶壁で中央部は城山会館の建設によって、 昔の面影はなくなっています。

 

南には八幡神社がありますが、『兵庫県神社誌』には、この山のどこかにあった神社を「一一八五年(文治元)に故あってこの地に移す」とあることから、このころ築城されたことが想像されます。

 

また、この八 幡神社と山城の間には平らな場所が残っていて、ここに根小屋があったと推定されます。

 

この城のつくりは、南側中央部の「三ノ曲輸」に勢隠跡があり、この勢隠はかなりの大きさであったもの と推定され、東側の構え跡にも勢隠が確認されます。

 

竪空堀は、各段の構えの兵力の移動と、各段の排水に利用したと考えられます。

 

また東と西の構えには、 川に向かって一本ずつの堅空堀があります。

 

いずれも川に達していますが、その川床は、滑らかな岩場になっ ていて、背後の備えと、最悪の場合には、詰の城の山川ノ城(中島城)」へ秘密の渡り場を使って渡河したも のと推定されます。

 

用水については、米田集落の上手と、寺跡東の中腹に湿地があったことから、この二か所からとっていたと考えられます。

 

引用資料不明。

 

城の歴史

鎌倉時代初期:山田伊豆守則景が築城。

 

建武年間(1334~38):佐用三郎左衛門尉範家が居城していた。

 

嘉吉元年(1441):嘉吉の変で山名教清の攻撃によって落城。

 

長禄元年(1457):この頃赤松氏が復興して、赤松一族の居城となる。

 

文明6年(1474):山名政豊により攻略される。

 

1500年前後:宗家の置塩城主である、赤松義村と争って落城

 

天文7年(1538):能登守祐清が城主の時、尼子晴久に攻められ、敗れて尼子氏に従属する。

 

永禄10年(1567):尼子氏の居城上月城が毛利氏に攻められて落城したため、祐清は米田城を放棄して宍粟郡の篠の丸城へ逃げ廃城。

 

城主家系図

祐清は1567年の落城時の城主かは不明。

 

所感

●宇野氏は赤松氏と同族であり、この地域を支配していた有力な豪族であった。

 

●米田城(熊見城)は曲輪も多く、しっかりした構造であるが、これほど何回も攻めらせ落城したからこそ堅牢になったと思われる。

 

●北は川も流れており急峻で攻めることが出来ない為、南の防備を固めている印象を受ける。

 

関連URL

【兵庫県】徳久城【佐用郡佐用町東徳久】

米田城の支城。

 

【兵庫県】矢能の砦【佐用郡佐用町矢能】

近隣の城。

 

参考URL

郷土の歴史と古城巡り(米田城・熊見城)

街の史跡 城跡探索 兵庫県のお城 米田城、熊見城

なんとなく城めぐり(米田城)

徳久は熊見の北側を守る枝城 西播磨歴史絵巻(51)「熊見城と徳久城」

武家家伝(宇野氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/25

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