城データ
城名:上月城
別名:荒神山上月城
標高:190m
比高:110m
築城年:正治年間(1199~1201)
城主:上月氏、赤松氏、尼子勝久
場所:兵庫県佐用郡佐用町上月
北緯:東経:34.975323/134.323279
攻城記
麓には尼子勝久の供養塔がある。
上月城の沿革と攻防
上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、大平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいずれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。
赤松氏は、播磨・備前・美作三か国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441)で、惣領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配するところとなる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し、播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。
天正5年(1577)織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き、1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため、城中の女子子供200人を串刺しと、磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。
秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は、一時宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多はこれを上月十郎景貞に守らしたが、再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
再び尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578)4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略のため、6月26日、高倉山より兵を引いた。このため、上月城は孤立し遂に7月5日、勝久は毛利氏に降伏し、開城自刃した。山中鹿助は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。
この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が、250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。
佐用町観光協会
上月歴史研究会
堀切。
本丸までの削平地は段々になっている。
そこそこの削平地が沢山ある。
本丸部分。
赤松政範の墓がある。
看板があり全体の曲輪の様子もうかがえる。
本丸部分は広い。
西に向かっていく。
このような細長い道を進む。
道でもあり曲輪でもある。
眼下を臨む。
さらに進む。
先端部分で堀切のようになっている。
不明瞭になっている。
上を臨む。
こちらは若干堀切が分かる。
こちらも遺構が残っているのが分かる。
五輪塔。
道からは上月城の看板も見える。
戦橋
この地域は地名を「戦」という。
天正5年11月28日には秀吉方の上月城攻めが行われ、激しい戦闘が行われたが、伝承ではこのとき敗走する宇喜多勢を追って円光寺集落の西側周辺で合戦が行われたという。
ここには「戦橋」と呼ばれる橋があるが、ここがまさにその激戦地となり、川が血で染まったという言い伝えが地元に残る。
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【上月城】
城の概要
上月城
上月城は「大平山上月城」といわれているが、「大平山」は上月城の北を流 れる寄延川を隔てた樫の木の繁茂する山のことで、現在ではこれを「天神山」 あるいは「樫山」とよぶ人がある。
大平山は標高二八〇mで、頂上に南北一四”、東西一二mのやや方形の平坦地があり、周りに一四前後の段があって、その下に幅一〇m、長さ二三mの平 がある。土の段なので、崩れた所もあり、現状は有名な上月城跡といい難い。
上月城は、最初はこの大平山に築造されたが、のち、川向かいの「荒神 山」に移されて、本城とされたといわれている。
したがって一般に「大平山上 月城」と記録されている城は、この「荒神山」にある”上月城”のことであ 標高一四〇mの荒神山頂上には東西二七m、南北二八mの本丸跡があり、周 囲に高さ三mの石垣を築いて一段高く築かれている。
本丸から東へ二の丸・三 の丸と階段式にしだいに低く郭敷地が造られており、先端に幅一mの空堀が掘 られている。
そして西方へはさらに三つの郭跡が同じく階段式に造られており、 先端に二条の「馬落とし」の空堀が造られている。
また南北は急坂で、低いな がらも完全に独立した一峰に造られている。
この城を初めて築いたのは正治年間の得平三郎頼景とされている。
その後、 一三〇余年を経て、頼景の孫上月次郎景盛が増改築した(『日本城郭全集』)。
しかしながら、景盛を頼景の孫とすれば、その間、一三〇年は長すぎる。
なお、 『佐用郡誌』には、景盛は赤松頼範の三男頼景の子とある。
さらに上坂氏の「赤 松氏略系図」によると、頼範の子に頼景・則景があり、弟則景の子として上月次郎景盛が書かれている。
こうなると、なおさら一三〇年の年代が合わなくな だ一人、浜田洋氏は景盛は頼景の曾孫としている。
これで年代は合致するが、出典が明らかでない。
景盛は建武の乱(建武元、一三三四)に武功を立て、 上月城を増改築したとある。
あるいはこの時、「大平山」から「荒神山」へ城を移したともみられるが、『日本城郭全集』には、応永年間(一三九四-一四二 八)に赤松氏と山名氏との相剋がはなはだしく、これに備えて出城であった南に続く一〇〇mの山頂(現在の上月城跡)に堅固な本城を築いて、以前の城、つまり大平山一帯を”固めの砦”にした、とある。
そして、この間に上月城は景盛から盛忠・義景・景満・景祐と続き、嘉吉元年(一四四一)に山名氏の進攻によって落城し、山名一族の居城となった。
また、その後、山名氏が衰退し、天文七年(一五三八)に尼子晴久が出雲から進撃し、上月城を占領し、ここを拠点として播磨地方に進出した。
さらに永禄十年(一五六七)に中国地方を攻略した毛利氏が播磨進出を企て、上月城を占拠したため、尼子氏は四散した。
そして 毛利氏に従属していた赤松蔵人政範は天正五年(一五七七)十二月、羽柴(豊臣)秀吉の播磨制覇の戦いによって落城した。
つまり下秋里戦の地で、上月城へ入 城を企てた毛利軍と羽柴勢との遭遇戦の時であった。
上月城を攻略した羽柴秀吉は、城を尼子勝久・山中鹿之助(幸盛)に委ねて姫路城へ引き揚げ、その後、八か月の間に尼子勢は利神城を攻略して別所氏を追い、秀吉の傘下で勢力を伸ばしつつあったが、翌六年(一五七八)七月、毛利氏の大軍に攻撃されて落城し、 尼子勝久以下が自刃した。
この時、尼子方の山中鹿之助は捕えられて毛利方の 本陣に護送される途中、謀殺された。
このように上月城は前後四回の落城の悲運に遭い、『上月戦記』『上月城戦記』など、多くの物語が伝えられている。
のちに、上月城には間島氏が居住したが、まもなく廃城となったといわれている。
現在の上月城跡付近には大亀山の出城跡をはじめ、侍屋敷跡のほか五輪 塔などが由緒を伝え、城物語の材料になっている。
城の歴史
正治年間(1199~1201):得平三郎頼景により築城されるという。
延元元年(1336):赤松氏の一族・上月景盛によって改修される。
嘉吉元年(1441):嘉吉の乱により、赤松満祐に加担した上月景則やその甥・上月景家らが山名氏に攻められ滅亡。
天文7年(1538):尼子晴久が出雲から進撃し、上月城を占領しここを拠点として播磨地方に進出する。(1回目落城)
弘治3年(1557):置城城から赤松政元が入城する。
永禄10年(1567):毛利氏が播磨進出を企て、上月城を占拠したため、尼子氏は四散する。(2回目落城)
天正5年(1577):羽柴秀吉の攻撃を受け落城する(第一回上月城の戦い)この時赤松政範が自刃する。(3回目落城)
天正6年(1578):宇喜多直家に城を奪取されその家臣である上月景貞が城主となるが、家臣の謀反で落城して尼子勝久らが入城する。
天正6年(1578):毛利軍に攻められて山中鹿介の奮迅もむなしく降伏し尼子勝久は自刃して開城する。(4回目落城)
城主家系図
上月氏は惣領家が嘉吉の乱で滅んだが庶流が命脈を保つ、赤松氏が入城する100年間は上月氏が城主だったかもしれない。
宇喜多家臣の景貞が更に庶流で赤松氏から宇喜多氏の家臣になったものだと思われる。
この図から分かるように、上月城を守っていた上月景貞は黒田官兵衛からすれば義兄に当たる、乱世ということで当たり前であるが、このような事が沢山あった。
また、景貞亡くなったあとは、子息の正好を黒田家にて養育し、苗字も黒田家に改姓して福岡藩藩士となる。
藩主の従兄弟ということで2800石という禄高で待遇される。
所感
●城は堀切が数本ある程度で大規模な兵士を籠城するには難しいかもしれない。
●尾根に曲輪があるが、こちらも兵士を駐留するには心細い。
●上月城は実は現在よりも北の山に昔はあったのを現在の場所にしたという話もある。
関連URL
上月城の戦いで参戦した城。
参考URL
上月城 -播磨の城ー – 秋田の中世を歩く
【仁位山城の空堀群】上月城攻防戦【空から城を攻める】ドローン空撮 MavicAir2 Kouzuki castle
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
『上月合戦』兵庫県佐用町
公開日2021/09/20