城データ

城名:加古川城

別名:糟谷城、加須屋城

標高:5m

比高:0m

築城年:鎌倉時代か

城主:糟谷氏

場所:兵庫県加古川市加古川町本町

北緯:東経:34.768551/134.830469

加古川城はここ

 

攻城記

現在は称名寺となっている。

加古川城址

城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。

 

天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。

 

その後、書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。

 

後年各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。

 

(播磨鑑)
加古川城50間(約90m)四方
雁南庄加古川村
村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。

 

石幢
当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。
幢身高さ66cm
径  27×18.5cm

 

石棺
出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。
長さ 131cm
幅  73cm
厚さ 27cm

 

昭和62年3月  加古川市教育委員会

 

寺院。

七騎供養塔

この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。

七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。

 

その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。

 

この七騎の塚が船頭付近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。

 

この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。

 

なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。

 

昭和59年3月  加古川市文化財保護協会”

 

供養塔(糟屋氏とは関係ない)

江戸時代の宝篋印塔。

 

余湖図【加古川城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【加古川城】

戦国時代とは地形も改変されており全く違うと思われるが、わずかに堀の跡の痕跡っぽいものがある。

 

城の概要

寿永三年(元暦元、一一八四)に平氏追討にその功を認められた糟谷(糟屋または加須屋とも書く)有季は、源頼朝から印南郡南条郷(河南荘・雁南荘)を与えられた(『太平記』)。

 

初代加古川城主は有数ということになる(『五事館 糟屋有季・同有久らの名はみえるが、有数の名はみえない)。

 

加吉川城は鎌倉時代には播磨の守護所であったらしい。

 

普通、守護所は国衙 の近くに設けられることが多い。

 

播磨国衙は現在の姫路市内にあったから、播 彼所が初めから加古川にあったのか、または最初は姫路に置かれ れが加古川に移されたものかどうかは定かでない。

 

六波羅検断職に任じた糟屋 氏は伯着守護代家(守護は六波羅探題南方)であったが、播磨の糟屋氏もその同族だろうと思われる。

 

多分、播磨の糟屋氏(したがって加古川城主の糟屋氏)が 播磨の守護代家(守護は六波羅探題北方の兼補)であったのであろう。

 

つまり、 播磨の糟屋氏は播磨守護代として守護所を守っていたらしいのである。

 

六波羅 探題の減亡と共に、近江の蓮華寺で自刃した糟屋一族は「南方内人々」となっ 伯者守護代家らしいが、あるいは播磨の糟屋氏が含まれていたも残っている。

 

しかし、播磨の糟屋氏はこの時に滅亡したのではなく、生き残 った者がやがて赤松氏に属してその家名を存続したらしい。

 

加古川城が歴史上、 重要な位置を占めるのは、三木合戦の時である。羽柴(豊臣)秀吉は天正五年 (一五七七)十月、播磨に入り、毛利討伐の軍議を「糟屋の館」で開いたという (「別所長治記』)。

 

加古川城は館城であったことがわかる。そして軍議の席が別所氏挙兵のきっかけとなった。

 

十二代城主の武則(内膳正)の時だという。

 

武則の兄朝正(玄蕃助)は翌六年二月、別所長治の幕下として三木の平山合戦で戦死 している。

 

ところで、武則は秀吉方として行動している。『太閣真顕記』は、その理由 を、朝正の母は御着城主小寺藤兵衛尉政職の妹で、ゆえあって志村某に再嫁し、武則を生んだためという。

 

その後、母から武則を託された朝正は、彼を養弟と した。

 

したがって兄朝正は義を守って三木城に入り、別所氏と関係を持たぬ武則が加古川城主となった。

 

ここにも一族が両軍に分かれながら命脈を保つ手段 が図られていることがうかがえる。

 

こうして別所長治麾下の神吉・志方・高砂・野口・淡河・ 端谷の六城主は、 それぞれの城郭を堅守し、他の小城主は三木城内に籠城した(『太閤真顕記』)。

 

天正六年四月三日、秀吉は野口城を攻撃した。

 

この時、武則は五〇〇騎を率 いて応援しており、野口城は同月四日に陥落した今『野口城合戦記』。

 

じつは秀吉が播磨へ下った天正五年は、姫路城の黒田孝高を除いて東播磨には豊地城の 別所重宗(棟)、野村城の宮部善祥坊、そして加古川城の糟谷武則が置かれ、秀吉軍の味方は事実上、存在しなかったといってよい(『武徳編年集成』)。

 

天正五年、秀吉による中国攻めの途上、秀吉を「武則の館」(加古川城)へ招き入れ、もてなしたことは武則の立場をよく物語っている(『播州古城軍記』。

 

つまり、加古川城は単に秀吉と武則とを結び付けただけでなく、のちに行われる三木方の諸城を攻撃するための重要な兵站基地になったことは注目してよい。

 

その後の武則は秀吉の配下として賤ヶ岳の七番槍の一人として功名をあげ、 秀吉から加古川城主として三万五千石を与えられた。

 

武則の子宗孝(真雄ともいう)は元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣で、豊臣方として籠城し、戦死した。同年六月十五日、加古川城は破却され、事実上、 その歴史を閉じた『黒田家譜』)。

 

城地について「糟屋文書」には「村の南、今御田地の字”城ノ内”という」 とある。

 

また『播陽里翁説』は「城跡は此寺(称名寺)の西方なり」と伝えてい る。

 

そして、その規模について『播磨鑑』は、五十間(九〇m)四方とし、さら に享保三年(一七一八)の『御領中組々書留』も同様の記載をしている。

 

遺構は国鉄山陽本線加古川駅の西南部、国道二号線沿いの南側の称名寺境内 から北西部にかけて存在したものと思われる。

 

称名寺の北方一丁に字「城」「城 開地(垣内か)」があり、野間宗七屋敷に城の鎮守稲荷社が存在したこと、また 隣地の春日前新田二九五番地に「駒寄」の字名が残されている加古川市史』) ことからも推定できる。

 

なお、称名寺境内に残る溝状部分を堀跡とみなす意見がある。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

寿永3年(1184):糟屋有季が、源頼朝から播磨国印南郡南条郷を与える、おそらくこのころ築城されたものと考えられる。

 

天正5年(1577年10月:羽柴秀吉が播磨に入り、毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれる。城主の糟屋武則は秀吉につく。

 

天正11年(1583)4月:賤ヶ岳の戦いにて糟屋武則が活躍して七本鎗の1人に数えられる。

 

慶長5年(1600):関ケ原にて西軍に味方したために領土を没収される、この時城も破却される。

 

城主家系図

諸説:糟屋武則の母は小寺則識の妹で志村某との間に出来た子供との説がある。

 

城主石高

加古川12000石の大名となる。

 

所感

●JR加古川駅から徒歩10分でつける。

 

●城があったらしいが現在その痕跡はあまり認められない。

 

●中世この地域は海だったと思われ、どこまでの規模だったかよくわからないが海城の性格も有していたかもしれない。

 

関連URL

 

参考URL

加古川城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨加古川城)

西国の山城(加古川城)

古城盛衰記(加古川城)

糟屋氏(ウッキペディア)

武家家伝(糟屋氏)

糟屋武則(ウッキペディア)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/19

ホームに戻る

攻城一覧



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.