城データ
城名:英賀城(あがじょう)
別名:岩繁城
標高:3m
比高:3m
築城年:室町時代初期(永享年間1429~41)
城主:赤松氏、三木氏
場所:兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町
北緯:東経:34.806184/134.639717
攻城記
英賀城
岩緊城ともいう。南は海、西は夢前川。東は水尾川に面し、北は湿 地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播 磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。
しかし嘉吉の乱(一 四四一年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正八年(一五八〇年)秀吉に滅ぼされるまで約一四〇年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族が、それぞれ大きな屋 敷を構えた。
また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が 達てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いににぎわった。
昭和十三年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今 では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残 っている。
また英賀御坊跡は昭和十三年ごろ夢前川の付替工事によ り消滅した。
その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。
平成六年十二月
姫路市教育委員会
当時の様子。
本丸跡、現在は眼前に住宅街。
城域は現在英賀神社となっている。
現在若干土塁が残っている程度。
土塁があったことを現在に伝える碑。
周辺部。
余湖図【英賀城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
英賀城は夢前川河口に築かれたとされる中世の平 城。
江戸時代に成立した「播州英城日記」や「英賀日記」 によれば、未松祐尚が築城し、その死後は三木通近が城 主となったとされる。
ただし中世の史料には英賀城の名称はみえない。
したがって戦国時代の英賀城下は英賀御 堂を中心とする寺内町とみるべきで、町の運営も六人の長衆を中心に行われており(「天文日記」天文五年三月三〇日条)
城主とされた三木氏も長衆の一人で、武士化した有 力商人と考えられる。
天正四年(一五七六)織田信長の播磨国進出を受け、本願寺の最後の拠点を守るべく英賀衆は毛利方の協力を得て 防衛を強化したが(定月二八日「小早川隆景書状」山田家文書など、国八年四月に羽柴秀吉による攻撃を受け、「阿賀の寺内」は開城している「信長公記」同月二四日条)。
その後、 姫路紫城に伴い英賀からの町人移住が行われた(六月一九 日羽都考音条々事書「利生護団寺文書」紀伊続風土記)。
なお英賀城の北西隅にあったとされる英賀神社の裏手に、現在も土塁一部が残る。
『兵庫県の地名』から引用。
英賀城
播磨の中央部を南北に貫流する市川の西に夢前川がある。
この夢前川は雪彦山から流れ下り、流域に古代・中世の遺跡を多く持っているが、戦国時代における赤松宗家の居城「置塩城」は、この中流地域の東側に築かれ、「英賀城」 もこの川の下流、播磨灘に臨む地に設けられた。
播磨の各地に砦や城が盛んに築かれるようになったのは、鎌倉時代末期から 南北朝時代にかけてである。
その頃、各地に戦乱があり、築城の必要性が生じ たのであるが、室町時代に入ってからも、封地を与えられた武将たちが大なり小なり居城を営んだ。
英賀城も、そうした時期に造られたものであるが、創築 者は赤松祐尚と伝えられている。
祐尚の父は赤松則村の孫で、将軍足利義満か ら信任された義則である。
祐尚は永享年間(一四二九~四一)の初め、夢前川の河口に城を築いた。
山城の多かった時代に、低地で、しかも水流に囲まれた地域に築城したわけであるが、これは後世にいう「水城」または「海城」(水軍根 拠地)の先駆といっていいかもしれない。
そして祐尚が亡くなると、姻族三木通近が在城し、近重・通重・通武と相続し、通武の時、旧城を改修して規模を広げ、通武の子通安は赤松氏を再興した 政則に従って武功を立てた。
また、その後、通規・通秀・通明と相続したが、 その間、瀬戸内海の海上交通と山陽道とを結ぶ接点という立地条件から城地はさらに整備され、「本丸」は東西三十一間から五十二間、南北三十七-三十九 間、その東の二の丸は、東西三十四間、南北五十間、また殿舎の多い三の丸は 本丸の西側に設けられ、西方を流れる夢前川、二の丸東方を流れる水尾川は外 堀に代用された。
背面の深い泥堀、前面の広い海、これらに囲まれた英賀城が、 急峻な山丘を利用する城郭・構居の多いこの時代に造られたことは注目される。
天正十年(一五八二)に羽柴(豊臣)秀吉が行なった備中高松城の水攻めは、こうした沼沢地城郭の攻撃法を確立したものであるが、英賀城が、この高松城と軌を一にする”平城”でありながら、一方を海に面して造ったという方法は、後年の築城法に大きな示唆を与えることとなった。
近隣のもので例示すると、讃岐の高松城、播磨の赤穂城など、海浜に築かれた城郭が同様の発想に基づいて いる。
英賀城の最盛期は戦国時代後半である。置塩城の赤松宗家は、この頃しだいに勢力を失い、下剋上の風潮が高まり、権臣の争いが激化した。
東播磨の旗頭は三木城の別所氏、中播磨は小寺氏、英賀城はこの小寺氏に対抗する一勢力にのし上がった。
そのうえ、蓮如上人の高弟法専坊空善の尽力によって上人の子実如上人を迎え、英賀御坊が城内に設けられた。
真宗教団中核勢力の播磨進出である。
これ以後、英賀はますます栄えた。この頃の姫路城下など、とうてい足元にも寄れなかった。
しかし、これが、やがて英賀城没落の運命をもたらすことになった。
永禄三年(一五六〇)に海道一の武将今川義元を討ち取った織田信長は、つい で美濃を攻略し、近江を平定して京都へ進出した。そして本願寺光佐の率いる真 宗教団と真っ向から対立した。
元亀元年(一五七〇)に光佐は大阪に拠り、天正二年(一五七四)に信長はその攻撃を始め、抗争の幕が切って落とされた。
この 時の英賀城主は三木通明の子通秋であったが、城下の門徒と共に大阪の本願寺を助け、播磨の門徒衆も多くこれに加わった。
瀬戸内海の海上権を持っていた毛利氏も石山本願寺を助ける側にあったから、その水軍はしばしば英賀城に立寄った。
天正五年に信長は羽柴(豊臣)秀吉を司令官として播磨征伐軍を派遣した。
三木城の別所長治は翌年、羽柴軍と戦端を開き、国内の赤松系諸将もこれに従っ て播磨全域が戦雲に包まれた。
しかし、天正八年、三木城が落ちると英賀城も落ちた。
英賀城の城地は集落と水田に分かれて、明治年間以後も、旧状を保っていた。
しかし、昭和年間に入って、日鉄広畑工場が誘致され、夢前川下流の付け替え 工事が行なわれると、景観は一変し、戦後の宅地造成で決定的に破壊された。
今では、この城の西北隅にあった英賀神社付近に、かろうじて面影を残すだけである。
戦後すぐの英賀城(英賀神社)付近。
城の歴史
永享年間(1429~41);赤松祐尚が夢前川の河口に城を築いた。
元亀元年(1570):本願寺光佐が大阪に拠り、天正2年(1574)に信長はその攻撃を始め、抗争の幕が切って落とされたが、この 時の英賀城主は三木通明の子通秋であったが、城下の門徒と共に大阪の本願寺を助け、播磨の門徒衆も多くこれに加わった。
天正5年(1577):信長は羽柴(豊臣)秀吉を司令官として播磨征伐軍を派遣するこの時英賀城も戦火にさらされるようになる。
天正8年(1580):近隣の三木城が落ちると英賀城も落ちた。
城主家系図
三木氏歴代当主
(武家家伝英賀三木氏から)
名前 | 生年元号 | 西暦 | 没年元号 | ||
通近 | 貞治元年 | 1363 | 嘉吉二年 | ||
近重 | 康暦二年 | 1380 | 母は宇都宮氏綱の娘 | 嘉吉三年? | |
通重 | 応永四年 | 1397 | 別所則重の子15歳で養子 | 養母は朝倉氏景の娘 | 文安三年 |
通武 | 応永二十一年 | 1414 | 母は赤松満祐の娘 | 寛正五年 | |
通安 | 永享四年 | 1432 | 三木実基の子10歳で養子 | 明応九年 | |
通規 | 宝徳三年 | 1451 | 雁南長の子20歳で養子 | 養母は六角久頼の娘 | 享禄三年 |
通秀 | 延徳三年 | 1491 | 天文十三年 | ||
通明 | 永正五年 | 1508 | 天正六年 | ||
通秋 | 天文三年 | 1534 | 母は赤松晴政の娘 | 天正十一年 | |
安明 | 永禄六年 | 1563 | 英賀城落城 | … |
所感
●中世末期には三木城・御着城とならんで播磨三大城の一つに数えられる。
●海岸線に近い城で防禦よりも商業的なものを優先にしている感じをうける。
●当時の海岸線はおそらくこの辺りだと思われるので、海城の様相だと思われる。
●現在は以降はほぼ残っていないが若干土塁が残っている。
●子孫は現在でも続いているらしい。
関連URL
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/13