城データ

城名:姫路城

別名:白鷺城、姫山城

標高:50m

比高:35m

築城年:貞和2年(1346)

城主:赤松氏、小寺氏、黒田氏、池田氏、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏

場所:兵庫県姫路市本町

北緯:東経:34.839439/134.693954

姫路城はここ

 

攻城記

遠くからでもしっかり見える姫路城。

大手門。

素晴らしい城で日本一だと思います。

かつて天守閣に使用されていたらしい。

この時点でもワクワクしてします。

圧倒的な存在感がある。

永遠に続く石垣。

天守閣が白くてまぶしい。

どこを切り取っても絵になる。

菱の門。

ベストアングル。

時代劇に出てきそうな感じ。

西の丸南門跡。

綺麗な石垣。

武者溜り。

西の丸。

百間廊下。

絵があるとイメージしやすい。

姫路城模型。

西の丸御殿。

江戸時代の城が全国に存在していたらこんな感じだと思われる。

非常に精悍な面構えな城。

狭間。

徐々に天守閣に進んでいく。

目立たないところは石街も小さい。

このアングルは何回もドラマなどで見ている。

家紋は黒田家か。十字架のような紋章もある。

天守閣が迫ってきている。

なかなかいいアングル。

破風が多いのでボリューム感がある。

石落としもある。

姥ヶ石。

天守閣最深部。

迫力がある。

姫路城模型。

修繕したてだったので白さがまだ目立つ。

それにしても広大な城。

 

圧巻の存在感。

扇の勾配。

三国堀。

 

秀吉時代の石垣。

姫路城裏から。

 

姫路城の雄姿

姫路城の雄姿。

 

余湖図【姫路城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【姫路城】

 

 

城の概要

姫路城

城地の歴史

姫路城天守の築かれている「姫山」は、標高五〇mばかり、広い播磨平野に 点在する小独立丘の一つである。

 

ここに城郭を構えた最初の人は、元弘の乱に義兵を起こした赤松則村の次男貞範といわれている。

 

貞範は貞和二年(正平元一三四六)から三年間、ここを居城とした。

 

しかし、同四年、庄山城を築いて移った。

 

あとを守ったのは、その被官小寺頼季である。

 

このあと、代々小寺氏 の居城となった。

 

嘉吉元年(一四四一)に播磨守護赤松満祐は将軍足利義政を弑し、播磨の城山城に立て籠もった。

 

しかし、山名持豊に攻められて敗死し、播磨は山名氏の領国 となった。

 

このあと、二六年を経て応仁の乱が起こった。この時、遺孤赤松政則は細川勝元の援助を得て山名軍を追い払い、播磨を回復した。

 

そして姫路を本拠としたが、翌文明元年(一四六九)に置塩城を築いて移り、旧例に従って小寺豊職を姫路城主とした。

 

「播州皿屋敷」の物語は、この豊職の孫小寺則職 代に仮託して作られたものである。

 

戦国時代には姫路付近でも小戦闘が繰り返された。

 

豊職の子小寺政隆は永正 十六年(一五一九)に新しく御着城を築いて移り、さらに享禄二年(一五二九)に 庄山城に移った。

 

しかし、翌年、浦上村宗に攻められて敗死し、村宗は同四年、 摂津で討死した。政隆の子則職は、この年、執事八代道慶に姫路城を預けて御着城に移り、則職の家老黒田重隆は天文十四年(一五四五)に道慶に代わって姫路城に入った。

 

重隆の子は職隆、孫は孝高である。孝高は、いうまでもなく後年の黒田如水である。

 

天正五年(一五七七)に織田信長の命を受けた羽柴(豊臣) 秀吉が播磨征伐に下って来た時、孝高がその片腕となって事業を助け、秀吉の 全国平定に大きく貢献したことは史上に名高い。

 

秀吉の播磨平定戦は天正八年に終わった。この時、信長は秀吉の功を賞して 播磨を与え、秀吉は姫路にその居城を設けた。播磨に初めて天守が建ったのは この時である。

 

慶長五年(一六〇〇)に播磨の国主となった池田輝政の築城工事 は、これを改修し、さらに大規模にしたものである。

 

池田輝政の築城

慶長五年、関ヶ原戦後の論功で播磨五十二万石を与えられた池田輝政は、徳 川家康の次女督姫を妻としていた。攻城野戦における手腕は、当時の武将間で も一頭地を抜いていた。

 

家康は、最後の目的である天下取りの布陣として、来たるべき大阪攻略の先鋒を輝政に期していた。

 

輝政の姫路築城は、この大負託 に応えるためのものであった。

 

築城準備は慶長五年から始められた。

 

普請奉行は、筆頭家老の伊木忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛と伝えられ、石寄せ支配は榎村長之、金物棟梁には芥田充商(初名家次)があてられた。

 

慶長六年に入ると、まず地形の造成が始められた。本丸・二の丸の さぎやま 「姫山」と、西の丸の設けられる「鷺山」の造成工事ならびに内堀・中堀・外 の掘削である。石垣・土塁の築成工事が、これと並行したことはいうまでもない。

 

基礎工事が終わると、建築工事が始められた。仕事の性質上、秘密を要する ことも多かったろう。また武装的平和時代に処して、突貫工事が進められたことも当然である。

 

工事現場はそれを反映して、さながら戦場のようであった。

 

この時代の最高技術を示す連立式天守閣を見事に完成させ、築城工事が一応 の竣工をみたのは、工事開始から九年を経た慶長十四年(一六〇九)である。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

公式サイトより。

 

西暦和暦できごと
1333年元弘3年赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦を築く。
1346年正平元年赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。
1441年嘉吉元年嘉吉の乱。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。山名持豊、姫路城を治める。
1467年応仁元年応仁の乱。赤松政則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる。
1580年天正8年羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉、3層の天守閣を築く。翌年完成。
1585年天正13年木下家定、姫路城主となり16年間治める。
1600年慶長5年関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。
1601年慶長6年池田輝政、城の大改築を始める。9年後完成。
1617年元和3年池田光政、鳥取城へ移る。本多忠政、姫路城主に。三の丸、西の丸、そのほかを増築。
1639年寛永16年松平忠明、姫路城主となる。
1649年慶安2年榊原忠次、姫路城主に。その後、松平、本多、榊原各氏が城主に。
1749年寛延2年酒井忠恭、前橋から姫路へ。明治維新まで酒井氏が城を治める。
1869年明治2年酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に。
1931年昭和6年姫路城天守閣、国宝に指定される。
1951年昭和26年新国宝に指定される。
1956年昭和31年天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。
1964年昭和39年天守閣群の全工事完了。
1993年平成5年ユネスコの世界文化遺産に登録される。
2009年平成21年大天守保存修理工事着工(平成の修理)。
2015年平成27年姫路城グランドオープン。

 

歴代城主

赤松貞範(1346年)

小寺頼季(1349年)

小寺景治(1352年)

小寺景重(1358年)

小寺職治(1403年)

山名持豊(1441年)

赤松政則(1467年)

小寺豊職(1470年)

小寺政隆(1491年)

小寺則職(1519年)

八代道慶(1531年)

黒田重隆(1545年)

黒田職隆(1564年)

黒田孝高(1567年)

羽柴秀吉(1580年)

羽柴秀長(1583年)

木下家定(1585年)

池田輝政(1600年)

池田利隆(1613年)

池田光政(1616年)

本多忠政(1617年)

本多政朝(1631年)

本多政勝(1639年)

松平忠明(1639年)

松平忠弘(1644年)

松平直基(1648年)

松平直矩(1648年)

榊原忠次(1649年)

榊原正房(1665年)

松平直矩(1667年)

本多忠国(1682年)

本多忠孝(1704年)

榊原政邦(1704年)

榊原政祐(1726年)

榊原政岺(1732年)

榊原正永(1741年)

松平明矩(1741年)

松平朝矩(1748年)

酒井忠恭(1749年)

酒井忠以(1772年)

酒井忠道(1790年)

酒井忠実(1814年)

酒井忠学(1835年)

酒井忠宝(1844年)

酒井忠顕(1853年)

酒井忠績(1860年)

酒井忠惇(1867年)

酒井忠邦(1868年)

 

城主石高

池田輝政:1600年入城 52万石

池田利隆:1613年入城 39万石

本多忠政:1617年入城 15万石

 

所感

●日本一の城といっても過言ではない。

 

●現存している建物も多く、歴史的価値も高い。

 

●石垣も多種多様で見ごたえがある、戦国時代の石垣も残っており価値が高い。

 

関連URL

 

参考URL

姫路城公式サイト

姫路城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨姫路城)

攻城団(姫路城)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/12

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