【八木城】
城データ
城名:八木城
別名:八木石城,石城
標高:330m
比高:230m
築城年:戦国時代か
城主:八木氏、別所重棟、別所吉治
場所:兵庫県養父市八鹿町八木
北緯:東経:35.389116/134.711308
攻城記
八木城全景。
但馬・八木城
八木城跡
八木町の背後にある西から東にのびる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つ山城があり、南北朝時代(1333〜1392)のはじまりという。
八木城は、標高330mの城山に作られた山城で.南北260m東面340mに広がる大規模なものである。
本丸には、山石を荒削りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592〜1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣をを作っている。
さらに本丸には天守台や矢倉台,石塁を築いており優れた技術をみることができる。
縄張りをみると.尾根を平坦にした曲輪を作り、東に6段.南に5.北に3投というように山全体に城郭を配置している。
八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。
八木城は、1万5千石の八木落の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な町並みを伝えている。
八鹿町観光協会
攻城開始。
道なりに進んでいく、急こう配でもないので楽に進める。
本丸までは長いがきつくない。
攻城するなら秋から冬がいい。
やっと城域に到着。
綺麗に管理されており気持ちいい。
二の丸跡。
本丸下の削平地。。
石垣が見えてくる。
本丸の周囲はこのような石垣が積まれており戦国末期の築城だと思われる。
本丸跡。
看板があるが朽ちているのが残念。
本丸は広さもある。
本丸自身の段差がある。
八木城古城方面。
余湖図【八木城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
【八木古城】
城データ
城名:八木古城
別名:八木土城、土城
標高:409m
比高:310m
築城年:鎌倉時代
城主:八木氏
場所:兵庫県養父市八鹿町八木
北緯:東経:35.391797/134.707542
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
八木城から八木古城に進んでいく。
土塁。
尾根筋に曲輪を配置している。
とても綺麗で遺構もはっきり分かる。
河原石があるが標高400m以上の高さまでよく持ってきたと思う。
余湖図【八木古城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【八木城・八木古城】
城の概要
八木城跡 八鹿町八木,今麗寺
八木集落の北西、北西ー南東方向に延びる尾根(通称城山)の上にある。
同所と尾根続き、北西方へ約四五〇メ― トル離れた地(今魔寺地内にかかる)には南北朝期の築城で、 戦国期には当城の結城であったと思われる八木土城(単に 「つちじろ」ともよぶ)があり、広義にはこの八木土城を併せ て八木城という。
尾根の東裾では東流する八木川に城の 東側を南流してきた今滝川が合流し、天然の堀を形成し ている。
平成九年(一九九七)八木土城を含め、八木城の名称で国の史跡に指定された。
八木土城の城域は東西約九〇メートル・南北約三三〇 メートル。標高四〇九メートルの高所に位置する主郭は 一六×一ニメートルあり、北―東側に土塁(〇八メートル) を構築し、周囲に幅の狭い帯曲輪をめぐらせている。
主 郭の背後(北西)には一七メ一七メートルの曲輪と堀切(幅 一六メートル・深き四メートル)を構築しているが、さらにそ の奥の尾根筋にも小規模な曲輪群がみられる。
主郭の前 面(南西)には連郭式に一二段の細長い曲輪(最大一四×四ニ メートル)を配置している。
特徴的なのは主郭南東下の曲 輪に構築された土塁を使った食違虎口と逆し字状の外枡形虎口が連続していることで、また連続する曲輪の西縁 部にはその西側斜面に設けられた主郭への通路を防御す るために土塁が構築されている。
土城は南北朝期に築城 起源をもつ城を戦国期に土塁・堀切などで改修したもので、八木城の詰城としての機能を有していたものと思われる。
ただし食違虎口・外枡形虎口は織豊期の天正一三年(五八五)八木城に入部した別所重棟によって構築されたものと判断される。
狭義の八木城の城域は東西約三四〇メートル・南北約二六〇メートル、標高三三〇メートルに位置する主郭(本丸)は長軸四七メートル・短軸二三メートルのいびつな長方形をしている。
南側(枡形虎口)と東側に虎口があり、本 丸の城下町側(西ー南側)には高さ九・三メートル、長さ約 五〇メートルにわたって高石垣が構築(野面積み)されている。
北西隅に天守台、南西隅に櫓台を造っており、その間を石塁で連結している。
西側(裏側)には石垣は積まれていない。
本丸周囲には帯曲輪をめぐらせ(西側のみ石垣を構築している)、本丸の北西背後には幅一五メートルの堀切、南尾根には七段の曲輪(最大二三メー六メートル)、南西尾根には六段の曲輪(最大六六メー七メートル)、北尾根には三段の曲輪(最大一九×三四メートル)を配置している。
教義の八木城は八木氏が構築した室町から戦国期の城郭を織豊期の別所氏が主郭周辺を石垣の城に改修したもの(瓦は未発見)とされている。
しかし主郭の南尾根や南東尾根に存在する小曲輪群や南東尾根から表採された一四世紀代の白磁片などから、築城時期は南北朝期にさかのぼるものと思われる。
伝承によれば当城は康平六年(一〇六三)頃閉伊四郎頼国によって築かれたとされるが、定かではない。また「読耕斎八木系図」は建久五年(一九四)源頼朝から但馬を拝領した朝倉高清が閉伊氏を打倒、次男安高を当城に入れ八木姓を名乗らせたとする。
八木氏は日下部一族で、弘安八年(一二八五)の但馬国太田文では八木庄地頭として八木又三郎入道覚円(泰家)の名がみえる。
元亨元年(一三二一)八木氏(家直か)は国衙の上に立ち、但馬守護太田氏に次ぐ地位にあったと思われ(同年六月一八日「日下部某書下」
この頃八木氏によって当城が築城されたと考えられる。
宝徳~文明年間(一四四九~一四八七)八木宗頼は一条兼良邸の連歌会に参加したり、「草根集」や「松下集」の歌集に歌を詠むなど文武兼備の人として京都で活躍し、「花八重立老翁」といわれた(黙雲稿・寛永諸家系図伝)。
また文明一六年二月には播磨野口の戦で箭・礫・土塊などを用いて奮戦している(補卷京華別集)。
元龟元年(一五七〇)四月、生野銀山(現生野町を接収した織田信長は、依然として銀山を押収している太田垣輝延ら但馬の有力国人を叱責して今井宗久らを派遣する旨を厳命しているが(四月一九日「太田垣輝延等宛織田信長書状」今井宗久自筆書札留)、そのなかに八木但馬守(豊信)の名がみえる。
天正三年(一五七五)春の芸但和睦以降、八木豊信は吉川元春に与同、同年一一月二四日には但馬の情勢を元春に報告して元春の但馬出兵を懇請している「八木豊信書状」吉川家文書)。
そのなかで豊信は山名祐豊が芸但和睦を事実上破棄して信長と通じ始めていること、尼子勝久勢が因州若桜鬼ヶ城(现鳥取県若桜町)に拠って再び勢力を振るい、宵田、西ノ気(現日高町)の垣屋光成の勢力が尼子勢に応じ始めていること、しかし鬼ヶ城に立籠る尼子勢包囲網の一翼を担う豊信が因幡・但馬の要害である氷ノ山越を辛うじて差止めていることなどを記す。
天正四年五月七日、八木豊信・信慶父子は元春から太刀一腰・馬』 疋を拝領した礼状のなかで、尼子勝久の鬼ヶ城撤退を報告している(「八木豊信書状」「八木信慶書状」同文書)。
天正五年一〇月、当城は羽柴長秀(秀長)の第一次但馬攻めによって落城した(武功夜話)。
しかし同六年六月、八木豊信は今灣寺に十六善神・十六羅漢の画像(同寺感を寄進し、子の信慶も同七年八月二八日に石原村恒富内大井一職分の田地を日光坊(日光院)に寄進しているので「八木信慶田地寄進状」日光院文書)、豊信・信慶父子は羽柴秀吉の播磨上月城(現上月町)攻めや三木城攻めの間に当城を奪回したものと思われる。
ちなみに天正七年七月二七日には吉川元春が但馬出兵を決意して毛利隆景にその了解を求めているが「吉川元春等連署書状案」吉川家文書)、そのなかで元春は但馬の内陸部では八木豊信・太田垣輝延が毛利方として活躍しており、元春は但馬における対織田防衛線として竹野(現竹野町)~作田(現和田山町)・竹野~八木の ラインを設定している旨を記している。
天正八年三月、長秀の第二次但馬進攻によって城は再度落城した。
その後八木豊信は羽柴秀吉の因州鳥取城攻 めに動員され、同年六月には若桜鬼ヶ城の守備を命じら れている(六月一九日羽柴秀吉書状「利生護国寺文書」紀伊続風 土記)。
同九年五月一九日の吉川経家書状(石見吉川家文書) には当時鬼ヶ城は無人であることが記されているが、同 年六月二四日秀吉は鬼ヶ城に在城する豊信に対し、但馬 一揆(小代一揆か)成敗のため木下平太夫(重堅)らの派遣を 予告し、その軍勢に協力することを命じている今羽柴秀吉書状」総持寺文書)。
しかし鳥取城落城後の同年一一月の秀吉知行割で八木豊信は降格され、新たに鬼ヶ城主となっ た木下重堅の配下となり、因幡国智頭郡を磯部豊直とと もに分知した(同年一一月四日「羽柴秀吉掟書」間島文書)。
八木豊信が去った後、当城には天正一三年八月に別所重棟 が秀吉から一万二千石を与えられて入部(武功夜話)。
同一 九年には重棟の子吉治が城主となった(徳川実紀)。
吉治は 天正二〇年(一二月に文禄と改元)五月、文禄の役に出兵して 宮部氏・垣屋氏などとともに釜山港から漢城までの宿陣 普請を命じられている(五月八日「豊臣秀吉朱印状」中川家文 書など)。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で吉治は西軍に属して丹後田辺城(現京都府舞鶴市)を攻めたため、丹後北良(現氷上町)に転封され、以後当城は廃城となった(「覚 政重修諸家譜」など)。
『兵庫県の地名』より引用。
八木城
八木城は八鹿町八木にある。国道九号線が八木谷に入って関宮町との境近くの西側に迫る山の頂に城跡がある。
ここには「土城」とよばれる古城跡と、のちに移転して築かれた城跡とが同じ稜線上に位置しており、一般的にいう八木 城は後者をさす。
八木荘には平安時代末期に閉伊氏がいたとする説があるが、確かな史料はない。
鎌倉時代に至って朝倉高清の次男が入って八木氏を称するようになった。
初代は八木新大夫安高である。土城は安高以前からあったか、安高あるいはその子八木三郎高吉が築いたか、はっきりしないが、おそらく鎌倉時代に築かれ たものであろう。
標高四〇九m、比高三一〇m余りの急峻な峰の尾に、一五日 ×二〇mほどの削平地が一五段ばかり鉤状に連なっている。
承久の乱に際しては、安高がその子三郎高吉・五郎高重らを引き連れて鎌倉 方について戦い、功績を立てたものと思われ、のち八木一族から地頭職を安堵される者が多かった。
彼らはのちにそれぞれの在地名をとって姓 とするのであるが、八木本流をなす太田文が作製された当時の八木荘地頭は又次郎覚円泰家で、その弟八木五郎兵衛尉高秀は城崎郡上三江荘案主であった。
元弘の乱にあたって、初め八木泰家は北条方 についたというが、高秀の子は宮方について活躍したらしい。
この人物は八木三郎左衛門高広である。 正慶二年(元弘三、一三三三)に後醍醐天皇の新政府から八木守恒名 を安堵された八木三郎左衛門尉高秋と同一人物とみられる。
高秋は 泰家の所領の一部を割いて与えられたのであろう。彼らの関係を明らかにするため、八木氏の系図を採録しよう。
泰家は南北朝分裂ののちには足利尊氏の党に属したのに対し、高秋は終始、 後醍酬天皇方についたか、惣領家に所領を収められたのか、系図上からその子孫は姿を消している。
鎌倉時代以来、養父郡日下部流の惣領家の地位を保った八木氏は、南北朝動乱期から戦乱の代にかけてしだいに興隆し、一貫して八木城に在城した。
この間、但馬守護山名氏に属し、その四天王の一人として重きをなした。
わけても 宗頼は山名教豊に仕えて豪勇の武士として知られる一方、文学をも嗜み、花八重立老翁と号した(『黙雲藁』。その長男兵庫助遠秀は、またの名を宗蔭、字を 栄中といい、持豊の部下で、「忠にして孝、武にして文、修斉治平の才」に恵まれた若者と嘱望されたが、二十七歳で病没した(『禿尾長柄筆』)。
八木城主は 五男宗世が継いだのか、宗世は但馬守を称する。
しかし、その次の代からは宗頼三男新兵衛尉貞直の子孫が城主となった。
なお、「八木系図」をみると、直重から宗頼までの五代の間、城主に兄弟が記してない。これにひきかえ宿南氏にはこの期にあたる代から後代まで、城主の 弟たちとその子孫まで細かに記されてあって、城主の代ごとに三~十人の名がある。
八木氏に血族者が少なく、家臣団を統轄する地位に宿南氏を起用したため、宿南氏に関して八木氏はこのような同族的色彩の濃い系図を作製するようになったのだろうか。
戦国時代末期になると、守護山名氏の勢威は大きく落ち、但馬国衆は主家を 超えて他勢力との結びつきを深めていく。
天正年間の頃、八木氏は太田垣・垣屋氏らと共に毛利方に属した。
このため、天正五年(一五七七)十一月には羽柴 (豊臣)秀吉の進攻を受けた。この時、八木城も攻撃を受けたか、明らかではな が、同八年四月には決定的攻撃を受け、城主八木但馬守豊信は降して、ただちに秀吉の家臣に加わり、因幡進攻作戦に参加して八木城を去った。
天正十三年に国替えが行なわれて、八木城には別所孫右衛門尉重棟が封じら れ、同十九年、嫡子豊後守吉治が襲封した。
しかし、吉治は慶長五年(一六〇 〇)の関ヶ原の戦いには西軍(石田三成方)に属したため、除封され、八木城は 廃城となった。
なお、吉治は伯母が三代将軍徳川家光の乳母春日局であったと とから、その所領を継ぐ名目のもとに翌六年に丹後由良領主に返り咲いた。
秀吉魔下の八木豊信は、天正八年、因幡の若桜鬼ヶ城の守備を命じられたのち、毛利方の反攻に遭い、鬼ヶ城を去ったものと思われ るが、その後の消息はわからない。
息子尾崎丸のあったことは八鹿 町浅間の浅間寺日光菩薩像背面の墨書銘によって知られるが、系図 には現われていない。
豊信の跡は絶えたものとみられる。
代わって 垣星氏へ養子に入っていた弟信貞が八木姓に返り、その子庄左衛門 光政が関ケ原の戦いに東軍(徳川家康方)に属し、翌六年六月、気多郡に栄地千石を賜わった。
ついで勘十郎宗直に至り、順次加恩され て覚文三年(一六六三)には武蔵・下総・上総に四千石を知行した。「八木系図」は、この宗直が江戸幕府に提出したものと思われる。
八木城は八木氏が山名の四天王の一人としての勢力を持つように なった南北朝動乱期か、それ以後に土城から移って築かれたのではなかろうか。山頂部に本丸、ついで二の丸を置き、そこから西南西 の方向に段丘状の削平地を連ねている。
本丸跡西面と本丸、二の丸 南面には高さ九・四七mを最高とする高石垣をめぐらし、南面ではさらにその下方に二段横みの小石垣が現存している。
ここを調査した関西城郭研究会北垣聡一郎氏は、この高石垣は天正年間半ば頃の構築になるものと推定している。
南面急簡斜の二つの谷には「血の谷」「フルヤ(降る矢)がと激 戦を物語る名がつけられており、また、その麓一帯に家老屋敷・的場・お里・ 戦京敷・首切場などの地名が残っている。
なお、山麓に四か寺がずらりと並ん でいるのも、かつての城下町の名残である
『日本城郭大系』12より引用。
城の歴史
康平6年(1063):閉伊頼国が前九年の役で功労があり、源頼家から但馬国が与えられ、八木の地に築城したのが始まりの可能性がある。
建久5年(1194):朝倉高清が源頼家から但馬国を与えられ朝倉城を築城し、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏は閉伊氏に勝利し、朝倉高清の第二子、重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となった
天正5年(1577):豊臣秀吉の但馬侵攻により八木城が攻撃をうける、この時城主八木豊信は降伏する、その後秀吉の家臣となり、因幡侵攻に従事する。
※八木豊信は八木城から若桜鬼ヶ城の城代となるが、吉川氏の侵攻で城が持ちこたえられず消息不明となる(のち島津氏の右筆となる)
天正13年(1585):国替えにより別所重棟が入部する。
天正19年(1591):別所重宗の嫡子である吉治が襲封する。
慶長5年(1600):吉治が関ケ原で西軍に属した為除封され、八木城は 廃城となる。
城主家系図
城主石高
別所氏時代には12000石位あったらしい。
所感
●土の城はその築城が古く鎌倉時代まで遡れるが八木氏の後年までこの城を使用したのではないか?
●その後秀吉の但馬侵攻後に別所氏が城主になり、本格的に改修、城下町からもシンボルタワーの為見えるところのみ石垣にする。
●しかし、その石垣はとても立派で往時は威厳があったと思われる。
●石の城は近世城郭として石垣や曲輪が見ごたえがあり、土の城は土塁や虎口などに見ごたえあり。
関連URL
山名四天王である太田垣氏の居城。
山名四天王である田結庄氏の居城。
山名四天王である垣屋氏の居所。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/11