城データ
城名:桐山城
別名:木井ノ山城,磯部ノ城
標高:203m
比高:193m
築城年:南北朝時代
城主:塩冶氏、山中鹿之介、垣屋氏
場所:鳥取県岩美郡岩美町大字浦富
北緯:東経:35.585996/134.313896
攻城記
いわし山登山口から攻めていく。
なかなか険しい城になりそう。
前方の山が桐山城となる。
ただし景色は良い。
いわし山番小屋というものがあったらしい。
更に進んでいく。
桐山城矢竹。
頂上付近からの浦富海岸。
本丸到着。
本丸が一番広いが加工度は低い。
桐山城について
桐山城跡は標高203mの日本海を一望できる桐山頂上にあり、郭が頂上と南東尾根に4カ所、東の谷に7カ所残っています。古くから浦富は因但国境海上交通の要所の港町でした。
築城年は、不明ですが、鹽冶(えんや)周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられます。
そして、元亀3年(1572)尼子の勇者・山中鹿助が入城。その後は垣屋光成(1万石、子の恒総まで20年間)、池田政虎(5千石、15年間)さらに、鵜殿氏(5千石)が幕末まで浦富を領しました。
この頂上までの散策道は、地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件がよければ、遠く大山や隠岐島が見えます。この素晴らしい眺望と四季折々の動植物を大切にし、ゴミ等は必ず持ち帰ってください。
平成13年3月 建
周辺部。
鵜殿家墓地
非常に綺麗に管理されている。
垣屋光成五輪塔
岩美町指定史跡
垣屋播磨守光成(宗管)の五輪塔
平成7年12月26日指定
この地、垣屋八幡宮は、垣屋播療守光成(紫管)を犯る幕所である。
垣屋氏は、但馬の山名氏配下の武将であったが,低馬で秀吉に降って因幡に入った。
秀吉の鳥取城政略にあたっては、鳥取城攻撃軍に参加、因担の通路を固く守備した。
鳥取落城(天成9年、1581)後、垣屋氏はその事功により巨濃郡一万石の戦国大名になったのである。
浦富の桐山城に在って、父子2代(初代垣屋播磨守光成、その子垣屋隠岐守恒総)のわずか約20年間の短い治世であったが、城下町の初期の形態は垣屋の時代に形成されたものと思われる。
その間、垣屋氏は、秀吉による朝鮮琉球にも参加、その後起こった関ヶ原の戦いで西軍に組して断絶したが,武勇絶倫の武将であった。
文禄元年(1592)に死去した光成の遺体は桐山城内に墓を築き埋葬されたが、後に池田加賀守政虎の所頭となった際に館を建てるため墓を現在地に移転した。
その霊魂を慰めるため、「垣屋八幡宮」として祀られて今日に至っている。
光成の墓石は石造の五輪塔であり、その上をひわだ葺の小祠で覆い、現在はさらに瓦葺の建物で全体を囲って大切に保存されている。
昔は祭日には出店があり、賑やかであった。今は町内会の維持となっている。
本遺跡は、線豊政権下における地域の戦国大名として歴史的位置付けのわかる重要な遺跡である。
なお、垣屋恒総の供養塔は、本町宇治の長安寺境内にある。
平成8年10月 若美町教育委員会
垣屋八幡宮。
長安寺【垣屋恒総供養塔】
長安寺
長安寺は宇治の長者(藤原冬久)が建立したと伝えられる寺である。
現在は無住で宇治地区で 保持している。
この寺に祀られている聖観音(本尊)を守護 している四天王の二体は藤原氏の栄えた平安後 期の作品として本町で初めて認められた貴重な 文化財である。
この二体の天部立像とも同一種材 で造られた一木造の彫眼像で、甲冑を身につけた武人の姿をしており四天王のうち多聞天・持国天 と考えられる。
また、寺の境内には垣屋隠岐守恒総の供養塔と伝えられている宝篋印塔がある。
垣屋氏は秀吉の鳥取城攻略にあたって桐山城主として参加し、その軍功により巨濃郡(現在の岩美郡岩美町)一万 石の戦国大名となった。
隠岐守は桐山城二代目の城主として関ケ原の戦いに参戦したが、戦いに敗れて高野山で自刃した。
のちに隠岐守の遺髪を葬ったのが長安寺にある宝篋印塔と伝えられている。
平成十四年岩美町教育委員会
垣屋恒総の宝篋印塔。
余湖図【桐山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
日本海を望む標高203mの紀伊ヶ山の独立丘陵頂部に南北150mに細長い郭が続く、南側では丘陵なりに東に折れて60mにわたって郭が見
られる。
築城の経緯は不詳だが、元亀3(1572)年に因幡支配をもくろむ山中鹿之助が本拠としたという。
天正9(1581)年、秀吉による鳥取城攻略後、垣屋播磨守光成が入り、巨濃郡1万石を支配した。
関ヶ原後垣屋氏は滅亡。池田光政の時代に家臣を配した浦富城は桐山城のこととも言われる。
『鳥取県中世城館分布調査報告書 第一集 因幡編』から引用。
桐山城跡 岩美町浦富
浦富集落の南西にある桐山(二〇三メートル)に築かれた城。
頂上付近化郭跡が残る。
木山城・木井山ノ城とも称し、紀伊が山とも記した(因幡民談記・因幡志)。
天正三年 (一五七五)と推定される二月二四日の二通の垣屋豊続奉書 (吉川家文書)には「喜為山」とある。
天正元年尼子党が丹後国から海路巨濃郡岩本村(または大谷村日比屋)に上陸、当時廃城となっていた桐山城を修築して拠点としたという (「陰徳太平記」「因幡民談記」など)。
翌二年三月再び因幡に 侵入した尼子党が改めて拠点としたらしく、吉川元春に 因幡への出兵を求めた前掲垣屋豊続奉書には元春が出兵 すれば敵方の「喜為山」を制圧することができるであろうと記されている。
元春軍は天正三年秋に因幡に着陣、 一〇月には尼子党を鬼ヶ城(現若桜町)に追込み無力化したのち帰陣しており(一〇月一五日「毛利輝元書状」閥閲録など)、 当城もこの間に陥落したと考えられる。
天正九年、羽柴秀吉は垣屋平右衛門尉(恒総)に巨濃郡 を与えており(同年一一月四日「羽柴秀吉捉書」間島文書)、知行高は一万石であった今天正慶長諸大名御旗本分限帳」国立公 文書館蔵)。
同氏の初期の支配拠点は不明だが、天正末年には当城に拠り、東麓に館を構えていたという(因幡民談記)。
天正一七年一二月八日の豊臣秀吉朱印状(宮部文書)に よると、垣屋氏は鳥取城主宮部継潤の軍事指揮下にあっ て軍役四〇〇人(軍役高八千石)を負担した。
同一一年に始 まる大坂城の普請でも宮部氏の指揮下で二〇〇人の人夫役を負担している(年末詳五月一七日「豊臣秀吉朱印状」宮部文 書)
「太閣記」所収の朝鮮国御進発人数帳に、朝鮮国都 表出勢衆の一人として垣屋新五郎の名がみえ、四〇〇人を動員している。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に際し、恒総は西軍として伏見城の攻撃に加わったが、戦後紀伊高野山へ逃れ切腹、その報を聞いた留守居の家臣は城から退去したという(因幡民談記)。
『鳥取県の地名』より引用。
桐山城
綱山城は、岩美町浦富の標高二〇三mの紀伊ケ山(木山)にある。
創建の年代ははっきりしないが、『因幡志』に「当城創建は塩冶高貞なり」とある。
永禄・ 元亀(一五五八-七三の頃)、廃城となっていたものをこの城跡に山中鹿之助が砦を築いて近郷を攻め、しばらくの間の住居とした。
天正八年(一五八〇)、豊臣秀吉の鳥取城攻めの時、桐山城に垣屋播磨守光成を入れて、但馬との繋ぎの城としたが、同九年、因幡平定後は垣屋光成を桐山城に配して巨濃郡一万石を給した。
文禄元年(一五九二)、光成は隠居して宗管と号し、その子隠岐守恒総に家督を譲った。
同年二月二十三日、隠岐守の朝鮮出陣の間に宗管は没した。
宗管の墓は、現在は浦富定善寺の入口にあり、垣星八幡宮として祀られてい るが、元和三年(一六一七)に池田光政の重臣池田加賀守が浦富に配された時、 「城内ニ屋宅亭館ヲ作ラント思ヒ立チケルニ、此ノ宗管墳墓ノ処、営作ノ妨ゲ ト成リケレバ、是ヲ掘り除ケ」と『因幡民談記』にあるように、城内から定善寺へ移転したものである。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の時、垣屋恒総は西軍に属し、伏見城の鳥居元忠や大津城の京極高次を攻撃した。
しかし、西軍の敗北で高野山に逃れ、 千手院で自害して垣星氏は滅んだ。 垣屋父子の桐山城在城は二十一年間で、その間に城郭や城下町が整備された ようであるが、詳細は不明である。
桐山城は東南を大手とし、『因伯古城跡図志』によると、山頂付近に郭跡とみられる平地四か所が描かれており、桐山城の東麓に「宗管屋敷といふ所」が あり、垣屋氏の居館が置かれていた。
居館を取りまく堀は現存しないが、天保十五年(一八四四)の「岩井郡町浦富村田畑地続全図」には、居館跡周辺に川場 らしいものが描かれており、侍屋敷は居館周辺の「殿町」に、町屋はその外側 の「上町」「下町」の地域である。
元和三年池田光政が鳥取藩主となると、浦富には重臣池田加賀守を配した。
ついで寛水九年(一六三二)、藩主が池田光仲になると、家老鵜殿氏をして因幡・但馬国境の警固と海岸の整備に当たらせた。
鵜殿氏は政庁である 「障屋」を垣屋氏の居館地の跡に置いた(鵜殿大隅陣屋参照)。
当時の侍屋敷は、 天保十五年の「岩井郡町浦富村田畑地続全図」に、「殿町南側」に三か所、「殿 町北側」に四か所、「上町南側」に二二か所と注記されている。また同十四年の鳥取藩『御国日記』にも「藤輔江お預けの鉄炮足軽、弐拾人並びに相夫四人 浦留前に相いなり候」とあり、浦富には二〇人ほどの侍が駐屯していたものと 考えられる。
この頃になると町屋は、垣屋氏の城下町時代の「上町」「下町」に加えて「新町」「境町」などが新たに形成された。
『日本城郭大系』14より一部引用。
城の歴史
南北朝時代:塩冶氏によって築城。
元亀4年(1573):山中鹿介が但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略する。
天正8年(1580):豊臣秀吉の鳥取城攻めの時、桐山城に垣屋播磨守光成を入れる、
天正9年(1581):因幡平定にて垣屋光成を桐山城に配して巨濃郡一万石を給する。
元禄元年(1592):光成は隠居して宗管と号し、その子隠岐守恒総に家督を譲る。
慶長五年(1600):関ヶ原の戦の時、恒総は西軍に属し、伏見城の鳥居元忠や大津城の京極高次を攻撃するが敗北、高野山にて自刃。
城主家系図
城主石高
垣屋氏所領時は1万石を豊臣秀吉から賜った。
所感
●『因幡志』には塩冶高貞が築城とあるが、塩冶周防守とあるので、美方郡新温泉町芦屋に勢力を張っていた塩冶氏の可能性もある。
●城は簡単な造りで砦のような雰囲気、加工度も低い。
●垣屋光成、恒総親子が20年間統治した期間に浦富も発展したものと考えられる。
●恒総は関ケ原で西軍についた為自刃したが、孫は紀州徳川家に仕官しており宗家を継いでいる。
関連URL
塩冶周防守の居城。
垣屋氏ので次男越中守系統の城
垣屋氏で三男駿河守系統の城。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書 第一集 因幡編』
『鳥取県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/09/05