城データ

城名:藤掛城

別名:藤根城

標高:360m

比高:180m

築城年:文和4年(1355)前後

城主:髙橋氏

場所:島根県邑智郡邑南町阿須那

北緯:東経:34.870584/132.612540

藤掛城はここ

 

 

攻城記

藤掛城全景。

比高はそこそこある。

最初は藪化しており大変。

途中からは比較的楽に進める。

やっと尾根に到着。

尾根づたいに進んでいくと最初の曲輪を発見。

阿須那の街並み。

本丸部分。

草木もなく散策しやすい、前方には櫓台がある。

櫓台。

櫓台の上から、面積もあり十分櫓も建てられる。

櫓台西の曲輪。

再び本丸。

本丸は一番広い。

二の丸。

下山途中。

東側は急峻で攻めにくい。

 

加茂神社

加茂神社

中世、この辺は荘園時代賀茂神社の勢力下にあったようだ。

 

 

位置関係

 

余湖図【藤掛城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

主郭は最高所に築かれており、中央には地元では櫓台と呼ばれている壇状の高まりが認められる。

 

このように主郭の中央に櫓台状の壇を築く例は、川本町の飯の山城、三隅町の高城、松江市の白鹿城に認められる。

 

東側は地形が急峻であるため堀切は築かれていないが、他の尾根筋は全て堀切が築かれており、防御を固めている。

 

北側に所在する郭群は主郭周辺と比較して明らかに普請の差が認められるため、古い時代の遺構とも考えられる。

 

城主には高橋氏が伝えられている。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

藤根城跡 現羽須美村木須田

藤掛山(標高三五八メートル、比高一五〇メートル)の頂上を 削平して本丸とし、中央に土壇を設けた山城。

 

峻険屹立した地形を利用し、北西に二の丸を置き、四方に延びる 尾根にそれぞれ六段から一〇段の階段状の郭を設け、要 所を空堀・竪堀で固め、西側背後は自然の鞍部を大きく 堀切で画している。

 

藤掛城ともいう。初代城主高橋九郎左衛門師光(英光)は備中松山城(現岡山県高梁市)城主高橋氏の一党とされ、駿河国高橋(現静岡県清水市)の大宅氏末流 と伝える(由比町史・石見誌)。

 

足利尊氏に仕え、正平五年 (一三五〇)高師泰の部将としてその軍に従って青杉城(現邑智町)に佐波善四郎を攻め、江川において毛利小太郎と渡河先陣を競い「太平記」巻二八)、その功により阿須那三千貫を領したという。

 

同六年二月尊氏方にあって大旗一揆 の武将として活躍したが(同書巻二九)、高師直・師泰兄弟 滅亡後に阿須那に移封されて藤掛山に築城したとされる。

 

支城として当城の東方阿須那村大庭に鷲影城、口羽村に高畑城、上田村に槙尾城を配している。

 

文明八年(一四七六九月一五日、高橋氏惣領命千代と石見国益田の益田越中守兼尭との間に交わされた契状(益田家什書)は両氏の相互協力・扶助を目的としており、命千 代幼少のため被官一六名が傘連判をもって加判している。

 

これらの者はいずれも国人領主とされ、石見・安芸両国 にまたがる高橋氏の所領を知ることができる。

 

師光から 七代目にあたる久光の娘は毛利興元に嫁して嫡子をもうけ、毛利元就育ての継母杉の方は高橋氏の娘とされるなど両氏は重縁の仲にあった(陰徳太平記・毛利元就卿伝)。

 

しかし享禄二年(一五二九)元就は安芸松尾城(現広島県美土里町)城主高橋伊予守弘厚を尼子氏に帰服したとして攻め崩 し(同年五月三日「毛利元就感状」閥閲録)、弘厚の子興光は藤根城に立籠ったが、元就の武略の前に同族の鷲影城主高 橋盛光に攻められて自害し(年月日未群「毛利元就知行往文案」毛利家文書)、城は廃城となった。

 

天文一一年(一五四 二のものとみられる三月二八日の毛利元就知行宛行状 (閥閲録)に「阿須那藤欄名内一町為給地遣候」とあり、城 の要地が門田就顕に宛行われている。木須田村の村民は つるぎ 大九郎興光を剣大明神として祀り、剣神社を阿須那村賀 茂神社境内に建立、二五年ごとに神楽を奉納し、現在も祭礼は続けられている

 

『島根県の地名』より引用。

 

藤掛城

勝掛城は、阿須那の町頭、出羽川を隔てて木須田部落の背後に迫る山塊の一部にあった。

 

山容は一見なんの変哲もないが、一度山中に入ると複雑な地勢で 棲線が錯綜しており、瑞穂町田所の高橋氏の本城と類似した築城様式をとっている。

 

特に注目されるのは本丸中央の土壇で、後代の天守閣に発展するその初期の形態を示すものと思われる。

 

観応元年(正平五、一三五〇)、足利尊氏の家老高師直と弟師泰の兄弟が佐波顕連の青杉ヶ城を攻略した時に従軍した高橋氏は、佐波氏の旧領阿須那を給されて備中高梁より移り、当城ならびに阿須那の町尻大庭の鷲影城を築いて急速 に勢力を伸張させた。

 

ついで、石見に移った足利直冬に呼応して南朝方を標榜し、康安元年(正平十六、一三六一)、出羽実祐の拠る瑞穂町二ツ山城を攻略して 本城を楽き、安芸・備後方面に領地を拡大していった。

 

永正十二年(一五一五) 高橋元光が備後三吉氏を攻めて討死すると、毛利元就は謀略をもって元光の嫡 子経光を退け、元光の弟の重光・興光父子を下田所の本城と藤掛城に配するよう大内義興に働きかけた。

 

享禄三年(一五三〇)、元就は重光・興光父子が尼子方に味方したと非難して 出兵し、重光を瑞穂町久喜の松尾城に攻めて滅ばし、藤掛城の興光攻略のため鷲影城を守る興光の一族高橋弾正を誘い、弾正に興光を戦原で討たせた。

 

弾正は興光の首をもって元就の陣する犬伏山に参じたが、元就は高橋氏を継がせる という約束を無視し、一族を謀殺する如き者は人にあらず、犬武士だと罵辱し て弾正を斬殺させた。(犬伏山山麓に彼の墓がある)。

 

かくて藤掛城・鷲影城と共に下田所本城もすべて滅び、元就は志道通良(口羽氏)を口羽に配した。

 

なお、鷲影城は阿須那の町尻大庭の地の背後、出羽川の深い峡谷にあった。

 

標高四二〇m、比高二四〇mの山城で、山頂にはL字形の広い削平地があり、 北方は急崖が出羽川に落下し、南方は戸河内の細長いが豊かな田園地帯の入口 に位置していた。

 

藤掛城が出羽川流域の支配を目的としたのに対して、鷲影城はその支流長田川の上流一帯(戸河内・長田)の支配と、合わせて藤掛城の背後 を防備したものと考えられる。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

1350年 北朝として高橋師光が佐波氏の拠る佐波郷に攻め込んだ、戦功ににより阿須那3000貫を賜る。

 

1350~1352年 「観応の擾乱」が勃発し、直義と対立して敗れた高一族が失脚、殺害されてしまった。

 

高氏に近かった師光は備中高梁松山城を逐われ、山陰の僻地邑智郡の阿須那に転封されてしまった。

 

これにより、高橋氏は幕府と対立する直冬の勧誘に応じ宮方に転向した。

 

1361年 南朝として活躍隣の二つ山城に勢力のあった出羽氏(北朝)を打ち破り出羽の地を併合する。

 

1392年 南北両朝の合一がなり、高橋・出羽氏の領地紛争も義弘の調停によって解決をみせた。

 

すなわち、出羽領七百貫のうち、高橋氏から出羽 氏へ二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させるというものであった。

 

1419年 毛利氏で惣庶間の紛争が起り、高橋氏は宍戸氏、平賀氏とともに紛争の調停に立っている。

 

1440年 海裏(うっと)荘地頭八幡神社の棟札に「高橋式部大輔泰光」と見え、これは、高橋氏が山名氏守護代犬橋氏の代官職であった関係で署名したものである。

 

1450年 吉川経信と綿貫左京亮が合戦したとき、高橋光世が小早川熈平とともに使者に立つなど安芸国における高橋氏の活動が知られる。

 

1461年 周布・小早川・三隅・吉川・吉見氏ら芸石の国人領主らから、武田元綱が西軍の大内方に転じた際に、高橋氏が幕命に応じなかったことを将軍に報告されている、このことから、高橋氏が西軍に転じたことが知られる。

 

1471年 高橋命千代ら,吉茂下荘で西軍の宍戸駿河守と合戦〔閥閲録126〕

 

小早川元平・吉川元経ら安芸・石見の国人75名,義政の命により,高橋命千代に武田元綱討伐を促す〔吉川381〕。

 

1476年 高橋命千代は益田氏との間で契約を取り結んでいる。

 

1510年 高橋氏と益田氏は五カ条の契約を行っている。これは、高橋元光と益田宗兼とが結んだもの。

 

1512年 安芸の国人領主九人が一揆契状を結んだが、毛利興元、小早川弘平、吉川元経らとともに高橋大九郎久光も署名している。

 

1513年 高橋元光は領境を接し永年紛争を繰り返している三次畠敷の比叡尾城主三吉氏を攻めた。幕府,益田宗兼に急ぎ氏家の救援を命じる〔益田文書〕。

 

1515年 高橋元光,三次郡入君で尼子軍と戦い討死〔閥閲録121-2〕。

 

足利義尹,高橋弘厚の息興光に同元光の遺跡を安堵〔(県)無銘手鑑5〕。

 

1521年 隠居の身であった高橋久光は備後比叡尾山城主三吉隆亮の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中に戦死をしてしまう。
(両方とも加井妻城攻めで戦死しているのでどちらかが間違っている可能性もある)

 

1525年 高橋興光,佐々部家の家督を同祐賢に安堵〔閥閲録88〕。

 

1526年 佐々部承世,高橋興光・毛利元就の一行を添えて,孫祐賢に同家の家督を相続させる〔閥閲録88〕。

 

1528年 大内氏の命を受けることなく高橋重光の居城松尾城を攻撃した。元就の松尾城攻撃は高橋氏に深刻な打撃を与え、一層、尼子方への傾斜を深めた。

 

1529年 5月 高橋弘厚,大内氏に叛き,尼子経久に通じる。毛利元就,高田郡松尾城に弘厚を滅ぼす。ついで,息興光を石見国阿須那藤根城に討つ〔閥閲録73,新裁軍記〕。

 

1529年 8月 毛利元就,山県郡壬生で高橋方の軍勢と合戦〔閥閲録73〕。

 

1530年 7月 大内義隆,毛利元就に高橋氏の旧領吉茂上下荘の知行を安堵〔毛利256〕。

 

ついで元就は、高橋氏の惣領である興光を調略によって葬り、生田城も攻略して高橋氏を滅亡に追い込んだのである。

 

ここに高橋氏は滅亡し藤掛城も廃城となる。

 

髙橋家の滅亡について

伝承 軍原のこと
大永享禄のころ毛利元就は、当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え虎視眈々として高橋氏の動静を伺っていた。

これを知ってか高橋興光は山陰の雄尼子氏に密かに意を通ぜんとす。

 

これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主高橋弾正盛光に「高橋興光をよい手だてによってその首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め末長く協力することを誓う」との密書を送った。

 

受け取った盛光は元就の謀略とは気づかず、興光謀殺を決意してその機を伺っていた。

 

時は享禄三年十二月四日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路につき、口羽から出羽川沿いに三三五五我が城藤掛城を仰ぎつつ軍原にさしかかった。

 

盛光は今こそ好機到来とばかり腕ききの部下達を軍原に森陰に伏せておいて息を殺して興光の到来を待つ程に、神ならぬ身興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。

 

不意をつかれて驚きながらも興光は疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡数せず全身創痍興光はもはやこれまでと、鎧甲を脱いでそばの松の枝に掛け大岩に上り悠然と腹かき切って果てた。

 

これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で「お約束の興光の首を持参しました。

 

この上はお約束の遺領&の誓約書を賜りますよう」と内心お賞もと期待していたが思いのほか「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」と言って誅し首を斬られ後犬伏山に葬たと言う。

 

現在も犬伏山の麓に盛光の墓と言われる墓石が苔むして建っている。

 

邑南町教育委員会

 

ただし疑問もある
以下疑問点。

 

阿須那に残る伝説によると「興光は都賀西の丁(よぼろ)城を攻め取り、ついで備後の入君の城を奪取り、阿須那の川沿いに帰途についた」ところ、戦原で弾正盛光に討たれたという。この話には二、三疑問の点がある。

 

(1)元就が久喜松尾城、長田の槇尾城を攻略して阿須那庄を脅かし、犬伏山に布陣している危急存亡の秋に、どうして他方面に出兵できるのか。

 

(2)たとい出兵するとしても都賀西の丁城は小笠原氏の重要拠点で攻め難いし、備後の入君の城はあまりにも遠い。

 

(3)出羽川沿いに帰途についたのではなく、本拠幡屋城から前線藤掛城へ督動に出かけたのではないか。

 

(4)系譜の高橋弾正盛光は「本城弾正左衛門、尼子侍大将、天文九年芸州討死」(石見誌本城系譜)と記してあるように、高橋滅亡に関係はなく、興光を襲ったのは別人である。

 

(以上『羽須美村誌』より引用556P~557P)

 

 

城主家系図

 

 

所感

●高橋氏が最初に築いた山城であるがしっかりとしたいい山城。

 

●阿須那の場所から上がったが本来であれば城の反対側からいける道があるみたい(しかし今は草刈をしていないのでいけないそうだ)

 

●城の前には川もあり天然の堀の役割をしている。

 

●城の上には檜が植えてあり下から見える(3本植えて目印にしているみたい)

 

●麓の賀茂神社はおそらく高橋氏以前よりも前からあったかもしれないが、高橋氏も保護していたものと考えられる。
(麓の集落の木須田村の村民は興光を剣大明神として祀り、剣神社を阿須那村の賀茂神社内に建立して25年ごとに神楽を奉納している)

 

 

関連URL

 

 

参考URL

島根県邑南町の城跡(藤掛城)

西国の山城(藤掛城)

古城盛衰記(藤掛城)

石見髙橋氏(ウッキペディア)

武家家伝石見髙橋氏

高橋久光(ウッキペディア)

高橋弘厚(重光)(ウッキペディア)

高橋興光(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『萩藩閥閲録』

『羽須美村誌』

『石見誌』

『邑智郡誌』

『広島県史』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『石見の山城』

公開日2021/08/15

 

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