城データ
城名:櫛山城
別名:櫛島城
標高:42m
比高:40m
築城年:弘安年間(1278年〜1287年)に築かれた元寇防塁の石見十八砦の一つ
城主:温泉氏、毛利氏 (出原次郎四郎という人物も出てくる)
場所:島根県大田市温泉津町温泉津
北緯:東経:35.101319/132.338486
攻城記
昔は島であったと思われるが、陸続きになり行くことが可能。
櫛 山 城 跡
櫛山城跡は、沖泊港の北側の丘陵突端に浮かぶ櫛島に築かれた標高37mの海城です。
島の周囲は切り立った断崖で、郭群は外海に面した西側と温泉津湾の湾口に面する南側に築かれています。
櫛山城は、出雲(島根県東部)の尼子方(注1)の温泉氏(注2)が在城し、その後の毛利氏(注3)の支配下で改修され、沖泊湾の南側丘陵に位置する鵜丸城跡及び温泉津湾の西側丘陵先端部に位置する笹島城跡とともに水軍の要港とされた温泉津湾の海上交通を掌握していたとていますが、詳しいことは分かっていません。
注1:出雲月山富田城を拠点とした戦国大名
注2:島根県大田市温泉津町の一部を治めていた在地の領主(武士)
注3:安芸国(広島県西部)郡山の吉田城を拠点とした戦国時代の中国地方の覇者
進んでいきます。
櫛山城の矢竹。
山頂部に到着。
前方が本丸であるが藪化で行けず。
海に面した砦のような感じの山城。
位置関係
余湖図【櫛山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
温泉津湾の湾国の東岸に位置し、西岸の笹島城、沖泊湾を隔てた鵜丸城と呼応して、毛利水軍の要港とされた温泉津湾の湾口を掘している。
島の周囲は切り立った懸崖をなしており、普請は外海に面する西側と温泉津湾の湾口に面する南側が丁寧で、沖泊湾に面した東側はほとんど加工されていない。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
温泉郷
益田兼栄・同兼高の あと益田氏庶流が温泉氏を称して伝領したのではないかと推測される。
文安元年(一四四四)頃、大内氏料所に組込まれた大家庄西郷のうち井尻村が一時温泉次郎に宛行われている(同年一〇月五日「大内氏奉行人連署奉書」閥閱録)。
温泉氏は戦国期には温泉津湊を眼下に収める串山(櫛山)城に拠り、長門国仙崎(現山口県長門市)との交易など日本海 水運を通じて勢力を蓄えたと考えられる。
弘治二年(一五五六)に石見に進出した毛利元就は温泉津 とその周辺の温泉郷を重視し、翌年には温泉津を押えた (同四年二月一七日「毛利元就・同隆元連署状写」石見吉川家文書 ほか)。
しかし永禄元年(一五五八)尼子軍と結んだ温泉氏に奪回された(七月二六日「杉原盛重書状」横山家文書)。
同四年頃、元就は再び石見を制圧するためには温泉惟宗と山吹城(現大田市)を守備する尼子方の本城常光とを離間させなければならないと強調している(月日未詳「毛利元就書状」毛 利家文書ほか)。
同五年に温泉信濃守英永(惟宗か)は毛利氏 に追われて石見を退去し、尼子氏のもとに身を寄せたが、 同八年五月二八日、杵築大社に常灯を寄進して居城のあ る温泉津串山ならがに「銀山款冬山」「幸部石見」などの地の奪還を祈願している(坪内家文書)。
同八年頃と推定 される一二月二三日の温泉英永・同久長連署書状(同文書) でも、帰国したならば温泉津の「せんさきや又衛門屋敷 一ヶ所」を与えると述べて、温泉郷復帰への強い意志を 示している。
温泉氏の退去後、毛利氏の直轄領となった温泉津に元亀元年(一五七〇)には鵜丸城が築かれた。
この温泉津に対し、その他の地域(飯原・西田・湯里の農村地域)を温泉三方 とも称した。
この築城に際し温泉三方は三〇杖分を築く よう命じられている(三月二〇日「鵜丸城普請賦帳」閥閱錄)。
なお天正四年(一五七六)と推定される一二月一一日、温泉三方のうち二〇貫の地が吉川経安(石見吉川氏)に与えられ (「吉川元春書状写」石見吉川家文書)、翌五年二月二八日にも 温泉三方のうち三〇貫の地が経安に与えられている(「吉 川元春知行宛行状写」同文書)。
同一七年には「温泉六方」を経安嫡子経実が知行しており、温泉六方との称もあった (二月五日「桂春房書状写」同文書)。同一八年頃と推定され る吉川広家領地付立(吉川家文書)に「百八拾貫 湯三方」 とみえる。
『島根県の地名』より一部引用。
城の歴史
弘安4年(1281):元寇の時に築かれた『石見十八砦』の一つと言われている。
文安元年(1444):頃、大内氏料所に組込まれた大家庄西郷のうち井尻村が一時「温泉次郎」に宛行われている
天文9年(1540):毛利氏攻略のため尼子晴久が石州路を進軍したとき、櫛山城主出原次郎四郎は尼子軍の猛攻に耐え、これを撃退する。
※この時は反尼子氏か。しかし後に尼子方につく(城主は温泉佐渡守)
弘治二年(1556):石見に進出した毛利元就は温泉津 とその周辺の温泉郷を重視し、翌年には温泉津を押えたので櫛山城も毛利氏の支配下になった。
永禄元年(1558):尼子軍と結んだ温泉氏に奪回された。
永禄4年(1561):毛利元就は再び石見を制圧するためには「温泉惟宗」と山吹城(現大田市)を守備する尼子方の本城常光とを離間させなければならないと強調しており、徐々に謀略の手が迫ってきている。
永禄5年(1562):「温泉信濃守英永(惟宗か)」は毛利氏 に追われて石見を退去し、尼子氏のもとに身を寄せる。
永禄8年(1565):「温泉英永」が杵築大社に常灯を寄進して居城のある温泉津串山ならがに「銀山款冬山」「幸部石見」などの地の奪還を祈願している。
元亀元年(1570):尼子再興軍が蜂起した時には鵜丸城と守る。
それ以降 毛利の石見銀山の銀搬出港として沖泊港が栄える。
慶長5年(1600):関ケ原により廃城。
所感
●櫛島由来
承久の変(1221年)で隠岐の島に流罪となった後鳥羽上皇が途中の嵐のため漂着し、世話になったお礼にと、古老へ櫛をあげたことから櫛島となったらしい。
●山頂は藪化で本丸まで行くことが出来なかった。
●城は海が荒れている時は行くことが出来ない。
●1回目は波が高い時に行き断念、2日目チャレンジ時も風が吹き、日本海の厳しさを感じた。
関連URL
お隣の鵜丸城。
参考URL
※YouTubeでの空撮は圧巻。
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/08/01