城データ
城名:半分城
標高:56m
比高:50m
築城年:戦国時代か
城主:塩冶氏
場所:島根県出雲市上塩冶町
北緯:東経:35.344416/132.762197
攻城記
半分城全景。
看板。
半分城跡
この城跡は上塩冶に所在する大廻城跡や大井谷城跡よりも規模が広く近くに塩冶八幡宮や高貞社があるので、城主は代々の塩冶氏であったと考えられます。
出雲国守護としての塩冶氏は約六十年高貞の弟時綱からの後、塩冶氏は尼子経久に滅ぼされるまで約百九十年続きさらに尼子興久が塩冶氏を名乗っていますからこの城郭も幾度か改修されたと考えられます。
昭和五十三年に西一郭が発掘調査されて土塁、柵跡、土壙などが検出されました。
城郭全体の遺構
主郭部は一辺二十五メートルの方形 北に郭二 東に郭三 西と南に郭各二 土塁 堀切り 帯曲輪を設けている。
平成十五年十月 塩冶クラブ
攻城開始。
半分城の矢竹。
城域は広いようだ。
看板の後塩冶氏というのが不明。
最初の小曲輪。
本丸1段下の曲輪。
土塁を伝って本丸に進む。
本丸、地元の方が整備している。
周辺部。
本丸から見た塩冶の風景、前方は島根大学医学部。
本丸から北東に下った郭(こちらは整備されていない)
周辺部。
一段降りたところから本丸を見上げる。
位置関係
余湖図【半分城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
出雲工業高校の南側に位置し、塩冶郷を一望できる場所にある。郭は、発掘調査によって大規模な版築により造成されたことが分かつている。
主郭は、最高所と考えられ、東から北西側にかけて土塁が築かれている。
また、西側には破壊が著しいが、連続竪堀が確認できる。
このように、中核部の防御は厳重であるが、主郭北側に伸びる尾根の2箇所の堀切等、防御施設の普請は不十分である。
主郭東側に伸びる尾根は、ほとんど加工されていない。城主には、塩冶氏の関係氏族が考えられるが、主郭をめぐる土塁の存在は、毛利軍による改修強化の可能性を物語る。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
半分城
半分城は島根医科大学の東方に連なる低丘陵の一画にあったが、頂上からは北方の向山城や古刹神門寺、西方の神戸川を隔てて古志城、南方の姉山城が望 見でき、前面には出雲平野が広がっている。
当城跡は大井谷城と同様に分布調査によって最近確認されたものであり、文献上も不明で、伝承ももたない無名の山城である。
遺構としては、放射状に延びる尾根に大小一〇か所の郭と主郭とがあり、西 一郭の麓を取り巻く帯郭一か所、堀切一か所、土塁二か所が存在する。
これら 郭の中で、西一郭は昭和五十三年に出雲市教育委員会によって発掘調査が行われたが、その報告書によると、二〇m四方の平坦地内に柵列二、使途不明 の土壙六、および主郭から延びる地山を削り出した土塁が発見されている。
土塁は北側にのみ存在し、その規模は主郭を含めると総延長七〇m、西一郭の部 分は二〇mで、基底部の幅六』、高さ二・五』である。
また、郭の地面は平坦地を確保するために全面積の三割近くに周囲を削った土砂を突き固めた版築が 施されており、それは深い所では厚さが二mにも及んでいる。
出土品としては、石臼一、釘多数、鎌一、擂鉢片一、土師質土器(かわらけ) 多数であるが、それらの遺物から推定される時期は十六世紀と考えられ、当城 の築城年代とも関係があろう。
当城は神戸川の出口を押さえる位置にあり、大井谷城と共に背後にある唐墨城を防禦する役割を担っていたものと推定される。
また、居館跡は出雲工業高校付近や三反谷入口に存在したものと推定されているが、なかでも谷入口のミ 反谷遺跡からは土師質土器(かわらけ)が多数出土している。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
不明
城主家系図
所感
●塩冶氏の城のなかでは造りが一番しっかりしているが、後世毛利氏が改修して規模が拡大したのかもしれない。
●大きな郭として主郭、一段下にある主郭の西の郭 北東にある帯郭などであるが看板では相当数の郭がある。
●主郭からみる塩冶の風景をみればここに城を築いたのもうなずける。
●南には神門川も流れており堀の役割をしている。
●現在出雲工業高校も城郭の一部の可能性もある。
関連URL
塩冶氏初期の居城と考えられる。
館跡か。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/07/29