城データ
城名:嵩山城
標高:593m
比高:490m
築城年:戦国時代か
城主:菅田豊後守
場所:広島県安芸郡熊野町城之堀
北緯:東経:34.356110/132.574501
攻城記
ゆるぎ観音に駐車していくのがベスト。
古い観音様らしい。
途中のお堂。
岩に観音様が彫られているものが多くある。
やっと攻城スタート。
まずは赤穂峠を目指す。
赤穂峠に到着、広島方向。
当時この城は阿曽沼氏だった時もあるがこの近さなら納得できる。
前方が阿曽沼氏の所領地域。
赤穂峠から嵩山城を目指すと100m過ぎくらいでこのような堀切が見つかる。
本丸からはかなり離れており、何故ここにあるのか不明。
表札があるのであと何メートルか分かる。
熊野方面。
本丸目指して進む。
山頂付近には岩がゴロゴロしている。
熊野方面が一望できる。
自然にできたものか、人為的にできたものか分からないが、こんな岩も本丸付近にある。
本丸到着。
三角点。
本丸の面積はそんなに広くない。
周辺部。
曲輪の周りには横堀がある。
周辺部。
戻る際にびょうぶ岩というものがあるので行ってみる。
びょうぶ岩。
位置関係
open-hinataより【高山城】
余湖図【嵩山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【嵩山城】
城の概要
城の遺構は,城山頂部の山頂郭群とそこから南西に続く尾根上の堀切からなる。
山頂郭群は3段の郭と北東下の帯郭からなり,北東・南西・南東の切岸下に堀切を備える。
また,南西丘陵上には巨大な石が進路をふさぐように並んでおり,阻塞として機能したものと思われる。
山頂郭群から赤穂峠まで土塁状の突起と3条の堀切がある。南西端の堀切は峠道となっている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
嵩山城跡
堀之城跡の西北側背後にそびえる城山 (標高五九二・八メートル)の頂部を中心に南北に連な る尾根を利用して構築された城である。
全体の規 模、構造などは、未踏査のため明らかにできないが、位置的には、野間氏の拠点であった矢野域(広島市矢野町)大内氏の槌山城(東広島市八本松町)、 阿曽沼氏の日浦山城(海田町)などが一望できる地にある。
『芸藩通志』によれば、「山麓に城濠、堀之城 という 嵩山の出丸か」とされるが、むしろ堀之城 の見張所的性格をもった遺跡と推測される。
『熊野町史 通史編』より引用。
城の歴史
熊野要害
まず大永七年(一五二七)二月九日に熊野要害を切落している。
熊野要害の切落しについては、『石井英 三氏所蔵文書』その他にみえるが、いま『萩藩閣関録』所収の「天野毛利文書」の天野興定合戦分捕手負注文 によると、この合戦において大内氏方の天野興定の郎従僕徒が一八の首級をあげている。
そのうち財満源三郎が野村五郎兵衛の頸を討捕っており、また澁谷孫左衛門尉が梶山新左衛門尉の頸を分捕っていることが注目される。
野村五郎兵衛というのは阿曽沼氏の重臣野村氏の一族であろう。また梶山新左衛門尉も阿曽沼氏の家臣であることは間違いない。
そうすると、熊野要害に拠っていたのは阿曽沼氏の軍勢であったわけで、この時期、熊野盆地は阿曽沼氏の支配下にあったのである。
ところで、熊野要害は何処にあったのであろうか。熊野盆地内には代表的城跡として、標高五九三 メートルの城山の頂上にあったといわれる嵩山域と、標高四一八メートルの土岐城山頂にあった土岐域とがあげられる。
『今仁文書』所収の大永七年(一五二七)三月十九日付の弥富依重軍忠状によると、大永七年に熊野にいたり御陣替え以来、所々において馳走し、同年二月二十三日に船越へ移動して日村山(日浦山)城の戦では矢疵を負い、三月八日の烏子山(鳥篭山)城の攻撃でも活躍した旨を詳記している。
注目されるのは熊野の御陣替えす なわち、陣が入れ替ったといっていることである。
すなわち熊野要害は阿曽沼氏の軍勢が引揚げたあと、大 内氏によって陣替えが行われたわけである。
『芸藩通志』によると、嵩山城は菅田豊後なる者が居するところであったと記している。
天文二十年(一五五一)当時、大内氏領東西条の拠城槌山城(東広島市八本松町)城番に菅田越中守と称する武将のいたことが知ら れているが、菅田豊後なる者はその城番の一族であっ たのであろう。
すなわち槌山城の支城的役割を果たし ていた嵩山城の前身が熊野要害であると考えてまちが いないであろう。
『熊野町史 通史編』より引用。
城主家系図
菅田豊後守が城主とあるが西条にある槌山城の城番が菅田越中守なのでその親族と思われる。
詳細は不明。
所感
●赤穂峠から広島市内が一望できるが、阿曽沼氏の居城も一望できる位置にあり、ある時期この城が阿曽沼氏の勢力下であったのも頷ける。
●大堀切が全く違う場所にあるが、その意図が不明、ひょっとしたら広範囲な城で未調査の部分にも城域があるのかもしれない。
●城としての広さはそこまで大きくなく、麓の堀之城の詰城もしくは見張り城であったとも考えられる。
関連URL
阿曽沼氏の居城。
平時の城だと考えられる。
嵩山城の対面にある土岐城。
ともに大内氏に属していたと考えられる。
参考URL
参考文献
『広島県の地名』
『熊野町史 通史編』
『日本城郭大系』13
『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』
公開日2021/07/03