城データ
城名:鶴ヶ城
別名:田儀城
標高:147m
比高:135m
築城年:康和4年(1102)伝承。
城主:源義親、小野氏(古荘氏),大鳥馬田守
場所:島根県出雲市多伎町口田儀
北緯:東経:35.264423/132.578475
攻城記
日本海。
公園なので整備されている。
本丸にはすぐに到着。
鶴ケ城 -尼子氏盛衰のドラマを秘めてー
鶴ケ城の始まりは康和4年(1102)源義家の嫡子対馬守義親が隠岐へながされる途中、清嶽山にさくを作り鶴ケ丸と名付けて弟義忠とともに守った。
また、吉野朝のころ(1336~1392)地頭 古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したとも伝えられている。
室町時代の大永年間(1521~1528)には、小野(古荘)玄藩守が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名付け尼子36城の一城として1万5千石を領した。
当時は尼子氏が山陰山陽11か国を勢力下に治めていたころである。
元亀3年(1572)小野氏の家老 広瀬右近之丞が鶴ケ城を守り、よく防戦していたが、銅山師 三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められて落城した。
その後、城は田儀城と改められ(知行三千石)、毛利の家人、大鳥馬場が守ったが関ケ原の没後、掘氏に属し、やがて徳川幕府の武家諸法度により廃城となった。
山頂(標高147.4メートル)には500坪(1650平方メートル)あまりの平坦地があり、その下方南東側に200坪(660平方メートル)ばかりの馬場跡、その西に弓場跡と思われる平坦地が見られ、大手木戸口は津戸側であったと伝えられる。
多伎町
本丸。
本丸からみた田儀港。
本丸部分は広い。
周辺部。
本丸から一段降りたところ。
馬場跡。
馬場跡別の角度から。
石垣跡かは不明。
鶴ヶ城全景。
余湖図【鶴ヶ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
出雲と石見の国境の仙山峠を見下ろす、田儀川沿いの丘陵上に立地している境目の城、北西方の稜線には二本の堀切を掘って北方からの攻め口を切断している。
仙山峠側から望める主郭南方の郭の切岸にだけは人頭大の石を積み上げており、見られることを意識した普請が施されているただ現在では、遊歩道のため破壊されて転落しているものが多い。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城の歴史
康和4年(1102):源義家の嫡子対馬守義親が隠岐へながされる途中、清嶽山にさくを作り鶴ケ丸と名付けて弟義忠とともに守ったとある。しかし、これは伝承だと思われる。
吉野朝のころ(1336~1392):地頭、古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城。
大永年間(1521~28):小野(古荘)玄藩守が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名付け尼子36城の一城として1万5千石を領した。
元亀3年(1572年):小野氏の家臣広瀬右近之丞が城代であったが、毛利輝元によって攻められ落城。
毛利氏によって田儀城と改められ毛利氏の家臣大鳥馬田守が城主となる。知行3000石
小野氏(古荘氏)について
田儀の隣に神西氏が勢力を張っていたが、その先祖が「小野高通」である、具体的には貞応二年(1223)に波加佐村へ入部とされることから、小野高通は鎌倉御家人として、承久の乱以降に新補地頭としてこの地に入部して勢力を拡大した。
のちに小野氏から神西氏になっていったものだと考えられるが、その系統の一つに古荘氏もあったと想像できる。
以下、『湖陵町誌』より
古荘田儀氏と多伎郷 一方神西(園山)新荘地頭の古庄氏は、新荘内の東部に稲頼荘が成立し、塩治氏・古志氏の勢力が侵入すると いう所領支配の危機に直面するが、その傍らでは西方の田儀へ支配を広げていったらしい。
この推定の根拠になるのが、観応二年(一三五一)二月の「西鳥居元兼軍忠状」である。
これによると、田儀地頭古荘二郎左衛門尉が、多くの手勢を率いて同年一月十七日に波福荘(現大田市波根町・久手町を中心とする 地域)に討ち入ったので、元兼は鳥居次郎左衛門尉や鳥越彌二郎らとともに迎え撃ったという。
しかしこの後元 兼らが出雲国へ侵攻して行った折には、田儀次郎左衛門尉が味方として所々の城郭での戦いに参加したと記して いる。
こうした戦闘は、実父である足利尊氏との対立を深めた長門探題足利束直冬が、石見国南朝方の中心ともいえる 三角兼連らと結んで、石見へさらに出雲へと勢力を伸ばそうとしたことから発生したものである。
西鳥居元兼は、 一族の鳥居氏や鳥越氏とともに直冬党となったのであろう。
なお足利直冬と尊氏との対立の背景には、室町幕府の権力闘争があった。尊氏の弟で直冬の養父である足利直義と、尊氏の執事高師直が政務をめぐって対立し、それが尊氏・直義という実の兄弟の対立へと発展して、観応三年(一三五二)に尊氏は直義を毒殺してしまうのである。
このような幕府内の深刻な闘争を、観応の擾乱と呼 んでいる。
足利直冬が実父である尊氏との対決に踏みきった背景には、養父を殺害されたという私情もあったの である。
ところで、先の軍忠状で西鳥居元兼は、年季を「貞和七年二月日」と記している。南朝方では正平六年(一三 五一)、北朝方では観応二年と既に改元されているにもかかわらずである。
これこそ足利直冬が、南朝方でもな くもちろん北朝方・室町幕府方でもない、第三の勢力たらんとした証拠といえよう。
さて当面の関心からすればそれ以上に注目されるのは、この軍忠状に登場する田儀地頭古荘二郎左衛門尉と田儀次郎左衛門尉の二人であろう。
前者は田儀地頭を称し古荘を名のっているから、神西(園山)新荘地頭古庄氏 の一族であることは間違いない。
そして石見国の波欄荘まで押し入り直冬党の西鳥居元兼らと戦っているから、 幕府・守護方である。
一方後者は、元兼ら石見の直冬党と合流して行動してい るから、反幕府・反守護方であることは明らかである。
南北朝の動乱期には、惣領家とその統制から脱しようとする庶子家とが、南北両朝方に分かれて戦うことは珍しくない。
田儀地頭古荘二郎左衛門尉と田儀次郎左衛門尉の間に、そのような惣領家と庶子家の対立関係を想定することは、 あながち無理とはいえないであろう。
ただ両者がともに二(次)郎左衛門尉という官職名を名のっており、後者は田儀という在地名を名のっているところからすると、惣領家と庶子家の関係にある一族と考えるよりも、両者は別系統の在地領主とみた方がよかろう。
とするならば、田儀次郎左衛門尉の方は、もともと田儀の地域に所領を持ち それを基盤に成長した武士であり、古荘二郎左衛門尉は神西(園山)新荘地頭 古庄氏の庶子で、この地の地頭職を得て入部し、それを世襲した武士と考えられる。
両者は、南北両朝の対立に加えて、直冬党の勢力の進展を好機として、 田儀の地域の支配の実権をめぐって戦闘を開始したのであろう。
したがって今後は、後者の系統を古荘田儀氏と呼ぶことにしたい。
なおここで検討すべき課題は、古荘田儀氏がいつの時点で田儀の地頭職を獲得したかである。そこで改めて問題になるのが、古代多伎郷が中世にはどのよ うな領有関係にあったかである。
多伎郷が確認できるのは、建武三年(一三三六)九月五日付けで楽邁彰院(現京都市)上人に宛てて出された光厳上皇院宣案に、「出雲国多伎郷事」とある ことによる。
この院宣案によって、多伎(岐)郷は京都の浄蓮華院を領家とする荘園化されていたと推定ざれて いる。
実のところ、これまでしばしば引用した文永八年(一二七一)の「関東御教書」には、現多伎町にあたる地域 が記されていない。
文書の性格からして、出雲国内のすべての個別所領とその領主を書き上げたものとすると、 この地域は近隣のどこか他の所領に含まれていた可能性があり、それこそ神西(園山)新荘の内とする推定も成りたつ。
久村・多岐・小田・田儀の各地域が、その成立当初から神西(園山)新荘の内に含まれていたと仮定すると、 古荘田儀氏が田儀の地頭職を獲得したのは、新荘地頭の古庄惣領家が庶子に新荘の内を分割して相続させた結果 ・小田などの地域も、他の系統の庶であり、鎌倉時代も比較的早いうちと推定される。
この場合は、久村・多崎。 子に分割相続させたと推定されよう。 一方、古荘田儀氏の成立時期はもっと時代を下げて考えることもできる。
つまり鎌倉末期から南北朝初期にか けての混乱の時期に、何らかの政治的事情によって田儀の地頭職を獲得した可能性が考えられる。
この場合は、 净蓮華院を領家とする多伎(岐)郷の荘園化に連動する動きと考えられよう。確定できる史料がないが、田儀次郎左衛門尉なる田儀の地域を基盤に成長した武士の存在と、南北朝動乱を背景とする、それとの対立を考えあわ せると、古荘田儀氏は多伎(岐)郷の荘園化にともなってその地頭職を獲得したものと推測しておきたい。
なお古荘田儀氏は、戦国時代末期に尼子氏が滅亡するまでこの地を支配し続けた。当地は出雲と石見の国境に あたり、また口田儀(田儀港)は日本海の海上交通の拠点の一つでもあったから、これ以後経済的 に繁栄もしたが、いくたびもの戦乱に巻き込まれもしたのであった。
城主石高
小野(古荘)玄蕃守時代:15000石
大鳥馬場守時代:3000石
所感
●ルートが2つあり駐車場のあるところから上ったが距離が相当あった、別の近道のルートもある。
城の遺構はほぼ無いは公園化されているので主郭と馬場跡は整備されている。
●木が茂っており見通しが悪いがもしなければ戦国時代独特の山城の雰囲気がある。
●田儀港も近いことから、海上警備としての意味もあったかもしれない。
関連URL
参考URL
参考文献
『湖陵町誌』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/06/20