城データ
城名:湯築城
別名:湯月城
標高:65m
比高:25m
築城年:建武3年(1336)
城主:河野氏
場所:愛媛県松山市道後湯之町
北緯:東経:33.848129/132.786702
攻城記
国史跡。
模型があり分かりやすい。
武家屋敷を復元したスペース。
内掘にある土塁跡。
内堀。
本丸を望む。
周辺部。
外堀の土塁。
外堀。
本丸跡。
松山市市街地を望む。
前方の山は松山城。
二の丸跡。
位置関係
湯築城Googleearth
open-hinataより【湯築城】
余湖図【湯築城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
湯築城跡
湯築城は、二重の掘と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす。
中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約二五〇年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(十四世紀前半)、河野通盛によって築かれたといわれています。
通盛の祖先には、十二世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北條市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、怱那家文書の記述から、遅くとも建武年間(1334~1338)には築城されたと推測されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正十三年(1585年)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。
看板より
湯築城跡松山市道後公園
道後温泉の南一キロにある。中央に低平な分離丘陵が あり、周囲に堀をめぐらしている。
忽那一族軍忠次第(忽那家文書)のなかに「興国三年三月湯築城責」とあるのが 初見である。
かつて伊社爾岡とよばれた地で、建武年 間(一三三四~三八)に豪族河野通盛(のち伊予守護職)が、ここに湯築城をつくって同氏の根拠地とした。
この時、丘陵 全体を要塞化するため、この地にあった伊佐爾波神社を いまの冠山の地に移したといい伝えられる。
城の構造は二重の堀をめぐらし、東方が追手、西方が搦手であった。
城の外回り五二〇間、東木戸から西木戸 まで一六〇間、内回り四六〇間、本壇高さ四五間三尺、 東西一九間、南北一一間三尺、さらに中壇・杉の壇があって、東側に切抜門があり、これから東方は石手寺の境 内となっていた(予陽郡郷俚諺集)。
この城は松山平野のなかで最も重要な地を占めていた ので、興国三年へ三四二三月に、宮方の勇将忽那義範は土居通世と協力して湯築城を攻略した(忽那一族軍忠次第)。
嘉吉元年(一四四一)以後、河野氏が宗家と予州家とに分れ て内部における紛争を続けるうち、天文の初め両派は河 野通直(弾正少弼)の治世に後継者決定について正面衝突し、 予州家と結んだ家臣団は湯築城に拠る通直を攻撃した。
通直は城を維持することができず、女婿の村上通康に迎 くるしま えられて難を野間郡来島城に避けた。
やがて両者の間に 和議が成立し、湯築城に帰った通直は家臣団の意見をい れて、予州家の通政に家督を譲った(予陽河野家譜)。
天正一三年(一五八五)八月に湯築城は豊臣秀吉の四国遠 征軍によって包囲された。小早川隆景は河野通直(牛福 に降伏を勧めた。
通直は大勢を察して、城を開き の陣営に来て秀吉に帰順を誓った。
そのあと隆景が伊予 国三五万石の大名に封ぜられ湯築城を本拠とした。福島 正則がそのあとを継いだが、居を越智郡国分城に移した とく
ので、この城は廃虚となった。
『愛媛県の地名』より引用
湯築城
源平合戦において源氏の与党として活躍した伊予の豪族河野氏は、戦功によって鎌倉幕府から「⋯⋯勲功他に異なるにより、伊予国御家人三二人を守護の 沙汰を止め、通信(河野)の汰沙たり、御家人役を勤仕せしむべきの由、御書を 下さる」(吾妻鏡』ことになり、通信は、国内の御家人三十二人を指揮下に置 く地位を認められた。
この地位は守護に準ずるほどのものであり、河野氏の所 領は十三世紀初頭になると、「当国他国領所五十三か所、公田六十余町。一族百四十余人所領」今予章記』)になっていた。
しかし、後鳥羽上皇によって起こされた承久の変に際し、河野氏の一族は多くが院側に味方して敗れたため、そ れまでに築きあげた地盤のほとんどを失い、一族離散の悲運に見舞われた。
こうして河野氏雌伏の時代がしばらく続くのであるが、一族のうち、母が北条氏出身であったため、ひとり幕府側に属していた通久の子孫通有が元寇の際にお ける武勲によって家運を盛り返した。
やがて後醍醐天皇の建武中興を経て、南北朝対立の時代になると、通有の子 通盛はいち早く足利尊氏に臣従して戦功を重ねた結果、河野家の惣領職を認め られると同時に通信時代の旧領を回復した。
かくて通盛は惣領家としての権威 を固めるため、それまで風早郡河野郷(北条市)にあった本拠地を温泉郡道後 (松山市)に湯築城を築きそこに移したのである。
当時、伊予国内の事情は、河野家の惣領職である通盛が北朝側の武家方だったのに対し、一族の土居・得能氏をはじめ忽那・村上氏らが南朝側の 、双方が互いに激しく戦火を交えていた。
おそらく通盛が湯築城を築いたの 、そういった時代背景に伴い、宮方の諸将と対抗、道後平野を制圧するうえ そこが交通上の要衝であり、政治・経済・文化の面でも最も重要な地点であ たからであろう。
通盛は湯築城に拠って、至近距離にある宮方の重要拠点味 山(現在の松山城)を攻略するなど、勢力の安定と拡大を図っている。
湯築城は、この地が古来、「湯築城の岡」と呼ばれていたことにちなむ。戦 時代末期になると、小早川隆景の関係文書などには「湯月城」と書かれてい ものもある。
築城以降、豊臣秀吉の四国平定に至るまでの約百五十年間、湯 城は河野氏歴代の大根城としていくたびかの戦火にさらされ、お家騒動の舞 にもなったのである。
『松山市誌』によると、湯築城の規模は周囲に二重の堀をめぐらせ、東が大手、 西が搦手となり、城の外回り約 九三六m、内回り約八二八皿、 本壇は標高七二』、その広さは 東西三五皿×南北八一皿である。 現在、城跡は道後公園になり、 これを囲む堀が外堀で、山際に 沿った池が内堀の名残である。
もっとも外堀は築城当時からあ ったものではなく、応仁の乱後、 天下が麻のごとく乱れ、各地に 群雄割拠する戦国時代になって からのものらしい。「湯築城古 図」をみると、内堀に囲まれた 山上が本壇になり、城郭の中核 である。
その最高部分には現在、 展望台が建っているが、ここに 望楼が築かれていたのであろう。
『日本城郭大系』16より一部抜粋。
城の歴史
康永元年(1342):南朝方の怱那氏、湯築城を攻める(最初に湯築城が記述される)
貞治3年(1364):河野通盛の嫡子通朝、細川軍と世田城で戦い戦死する、その子の通堯(通直)は九州に渡り、南朝方に属する。
貞治7年(1368):九州から帰国した河野通直、細川軍を破り、伊予国府へ入る。
康暦元年(1379):河野通直、伊予国守護に補任されるが、細川軍と佐志久原(現西条市)で戦い戦死する。
康暦3年(1381):河野氏、宇摩(現四国中央市)、新居(現西条市、源新居浜市)両軍を割譲して細川氏と和睦する。
明徳4年(1393):河野通義、明徳の乱で伯耆国への出兵を命じられる。
応永6年(1399):河野通之、応永の乱で上洛し大内氏と戦う。
永享7年(1435):河野通久、幕府の命を受けて豊後国(現大分県)へ出兵、姫ヶ嶽で戦死する。
永享13年(1441):河野教通、永享の乱で美濃国(現岐阜県)を経て、足利持氏(鎌倉公方)討伐に向かう。
寛正6年(1465):大内正弘軍、河野教通と細川軍を攻め、湯築城周辺で戦う(井付合戦)
応仁元年(1467):河野氏庶流の通春、応仁の乱勃発により、大内軍とともに上京。
文明13年(1481):河野通直(教通改め)石手寺を再興する。
大永3年(1523):鷹取城主(現今治市)正岡経貞、河野氏に対して反乱を起こす。
享禄3年(1530):石井山城主(現今治市)重見通種、河野氏に対して反乱を起こす。
天文4年(1535):湯築城の外堀とみられる「湯付掘」の築造が行われる。
天文13年(1544):河野氏当主晴通の急死により、河野弾正少弼通直、湯築入城をはたす。
天文23年(1554):岩伽羅城主(現東温市)の和田通興、河野氏に対して反乱を起こす。
永禄11年(1568):河野軍、宇和郡と喜多郡の境の烏坂峠付近で、土佐一条氏の軍を破る(烏坂合戦)
天正13年(1585):河野通直、豊臣秀吉の四国平定軍の主力、小早川隆景に降伏し湯築城を明け渡す。
天正15年(1587):豊臣秀吉の配下の福島正則が湯築城に入り、東、中の領地を支配する。のち拝志城(現今治市)に移り、湯築城は配城となったとみられる
城主家系図
旧公式サイトから
城主石高
小早川隆景時代:35万石。
所感
●中世の生き抜いた守護としての山城は二重の堀を巡らせ強固であった。
●中世の城とはこのようなものであった、数回は城で戦があった為順次拡張されていった(1535年の外掘など)
●河野通清は備後国の奴可入道西寂に攻められて滅んだが、息子の通信によって西寂を討ち取る。
※この奴可入道西寂の城跡が小奴可にある亀山城である
関連URL
付近にある松山城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』16
『愛媛県の地名』
公開日2021/06/12