城データ
城名:牛頭山城
別名:牛地城
標高:681m
比高:370m
築城年:不明
城主:小河内氏
場所:広島県広島市安佐北区安佐町大字小河内
北緯:東経:34.568653/132.428785
攻城記
登山道がしっかり整備されており問題ない。
攻城開始。
比高も高く急峻な山を登っていく。
尾根まで取り付いたら少し楽になる。
東第五郭という場所に到着。
周辺部。
最後の難所を登っていく。
東第二郭跡。
東第一郭跡。
山頂(本丸)に到着。
北東風景。
南西方面(宮島も見える)
標高も高い為、景色もよい。
中国自動車道の牛頭山トンネル付近。
西方面に行く。
西第一郭。
西第二郭。
本丸方面を確認。
もう少し下っていく。
立派な石垣がある。
基本的に岩石の多い山だと思われる。
西第一堀切跡。
西第三郭跡。
西鐘の段
岩山だということが良く分かる。
牛頭山全景。
open-hinataより【牛図山城】
余湖図【牛図山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』牛頭山城
城の概要
本城跡は、太田川北岸の牛頭山(標高672m)から西に延びる主尾根上の山頂に位置し、標高681m、比高370mを測る。
郭は1郭の北西に三つ、東に五つ、さらに土橋を隔てて七つを階段状に設けている。
本城跡は、市内中最高所にある山城跡で、豊平、鈴張、久地あたりまで見渡せる要害堅固な山城である。
本城跡については『芸藩通志』に「大永年間、武田刑部が弟、小河内弥太郎これに居る。天文年間、亡といふ。」と記されている。
大永年間(1521~1527)といえば、1524(大永4)年、大内義隆が銀山城を囲んだ時期に当たり、武田氏が居城銀山城の背後の守備のため一族を牛頭山城に配置したと考えられる。
1541(天文10)年に銀山城が落城しており、同時期にこの牛頭山城も落城したと考えられよう。
武田刑部については、沼田町伴の伴藩主として記されていることから伴氏一族と考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
享禄四年(一五三 一)閏五月九日の毛利元就証状(吉川家文書)では、小河内は 鈴張・飯室など五村とともに吉川興経に安堵されている。
『吉川家文書』383より。
1531年といえば横川合戦の前年であり、毛利元就の調略が武田所領に広がっていた時期と合致する。
年未詳七月二六日の大内義隆書状(『閥閲録』所収来原利右街門家文書)によると、小河内要害が吉川以下諸牢人によっ て奪われたのを、翌日切返したとしているが、享禄四年以前の事件と推定できる。
『萩藩閥閲録』来原利右衛門-11 より
天文一一年(一五四二)五月九日 の大内義隆充行状(「国郡志下調書出帳」所収)には「小河内庄 八幡宮」とあり、「小河内庄」の称のあったことがわか る。
『芸藩通志』に「大永年間、武田刑部が弟、小河内弥太郎これに居る。天文年間、亡といふ。」と記されている。
ことから天文年間(1532~55)以前に築城されて、銀山城落城とともに牛頭山城も廃城になったと考えられる。
築城年代は不明であるが、『陰徳太平記』に小河内氏が出てくるので15世紀までにはこの土地を治めていた「小河内氏」が築城していたものと考えられる。
天文二一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「小河内保利知行」とみえることから、小河内の地が保利氏の知行になったことが分かる。
『毛利家文書』261より
小河内氏について
小河内氏に関しての資料は少なく、どのような性格の地侍や国衆か分からないが、『陰徳太平記』に出てくる人物や宍戸氏に嫁いだ小河内氏もいることから、ある程度の認知はされていた勢力と認識されている。
若干の資料から分かる範囲で記す。
小河内沙弥妙語
『毛利家文書』24「安芸国諸城主連署契状」応永11年(1404)の一番最初に「小河内沙弥妙語」という人物が記載されており、国衆としてある程度の勢力があったことが伺われる。
『毛利家文書』24より
小河内左京亮繁継・小河内修理亮元任・小河内大膳光方
この3名は『陰徳太平記』の中の「有田合戦付元繁戦死之事」のなかに武田元繁家臣として毛利氏と戦っている。
また、1533年の横川合戦の時には武田方として熊谷氏の居城である、高松山城を攻めているが、結局彼らを含む一族7名が討死してしまう。
この中で、小河内左京亮繁継に関しては、武田元繁の弟との伝承もあるがはっきりしたことは分からない。
しかし、宍戸隆家の継室が「小河内石見繁継姉」となってし、繁継の娘を養女としている。
ただし繁経に関しては、年代的に1世代ずれている、また、「左京亮」「石見守」と違いがある。
小河内弥太郎
『芸藩通志』では「牛頭山 養山 並に小河内村にあり、共に大永年間、武田刑部が弟、小河内彌太郎これに居る、天文年間、亡といふ、」とある。
また、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』の記載にて武田刑部については、沼田町伴の伴藩主として記されていることから伴氏一族と考えられる。
伴藩主となると、伴繁清か息子の武田信重になる。
更に、「安佐町史」には以下の記載がある。
『 城主小河内弥太郎は銀山武田刑部少輔の若君で6才の時来城した。
18才の時、吉木村城主笠間氏が本地村の手立てを持って弥太郎をはじめ家老鈴木伊賀、形山弾正を西福寺へ招待し、その接待中に牛頭城御下り苑の城(殿之城)に軍勢を入れて火をかけてしまった。
そこで弥太郎は城へひき返して討死をしようとしたが、形山弾正は「名もない者に首を取られるのは末代までの恥であるから切腹すべし、拙者老齢故おとも仕り、鈴木は若年故介錯し、後事をたくしたし」とすすめた。
弥太郎もいまはせんなしと、鈴木伊賀の介錯で腹を召してここに牛頭城主小河内家は亡んだ。鈴木伊賀は弥太郎と弾正の首を持ち、かた木山へ登りこの首を埋めて葬り、大小の太刀は八幡宮に奉納し笠間の追跡をかわして逃れた 』
武田刑部を誰に比定するかで変わってくるが、武田元繁(1467~1517)と息子の武田光和(1503?~1540)と養子の武田信実(1524~?)が刑部を名乗っている。
また、上記の伴城の武田信重が最後の当主となった時に刑部を名乗れば彼も該当することになる。
小河内弥太郎の可能性。
弥太郎①は年代的に合わない。
弥太郎②は可能性がある、当時庶子も多くいたと考えらるので。
弥太郎③は若狭武田家から養子として単身で来ていると思われるので可能性低い。
弥太郎④に関しては『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』に伴城主とあるので、信重が刑部を名乗れば不可能ではない。
小河内石見守(小河内源兵衛尉)
『陰徳太平記』の中で「小河内石見守」の名前が出てくる。
1つ目は巻33の永禄3年(1560)に起こった「石州川上之松山落城之事」には「ここに小河内石見の守という者あり。少年の時は出家でいたりけるが、いかに思いけん、還俗して、吉川元春に仕官せり。」記載されている。
また、巻39の永禄8年(1565)に起こった「富田所に付城並山中鹿之助夜討事」にも以下の記載がある。
「九月二十日、元就朝臣・元長・隆景二万五千余騎、富田へうち給い、経羅木山に陣を構え・・・・。小河内石見の守という者を、芸州新庄に使いに出され、小河内白潟の満願寺という寺に宿を借りて居けるを、山中鹿之助、この夜子の刻ばかりに、船に乗りて三百余騎、寺中へ乱れ入る。
小河内は早く起きあがり、家人共も続いて打ち出でける間、敵たちまち寺中を切り出され、重ねて攻め入ることを得ず。
小河内は敵の引くを見て、寺内に兵共を残し、ただ一人敵の舟影に隠れ、山中を討たんと待ち居たり。
これをば知らず鹿之助「えい。小河内を討たずして無念な。」と言い言い、何の用心もなく船に乗らんとするところを、小河内舟影よりつと出て、一太刀切り、後ろへ閃りと飛びたりけり。鹿之助、膝口したたか切られながら、心得たりとて抜き打ちに切りたれども、小河内足早に引き取りたれば、歯ぎしりをしてぞ立ち去りける。」
と記載されている。
『吉川家文書』511の中に永禄6年(1563)の吉川元春軍忠状にて「小河内源兵衛尉」という名前がありこの人物だと思われる。
年代から「小河内石見守繁継」の息子の世代に比定される。
小河内与次
『石見吉川家文書』128の中に「小河内与次」という人物が記載されている。
天正9年(1581)に石州吉川家にも小河内一族がいたことが分かる。
小河内左京亮(進)重保
『広島県史Ⅴ』の村山帳-1 「贈村山家返章写」の天文9年12月12日中に「天野家家臣」として小河内左京亮という人物がいるようである。
左京亮と言えば横川合戦で討死した「小河内左京亮繁継」との関係性が否定できない。
横川合戦:1533年
贈村山家返章写:1581年
と約50年の時代的な差があるので、関連しているとしたら、初代左京亮の孫の世代になる。
地名の小河内
『陰徳太平記』では小河内石見守が吉川元春家臣になっていいたが、立地的にも興味深い。
所感
●本丸に行くのにかなり急峻な山を登らなくてはならない。
●本丸から西に降りていく途中の石垣はしっかりと残っており見ごたえがある。
●山頂はハイキングコースにもなっているので景色は最高にいい、南は瀬戸内海や宮島まで見える。
●伝説では弥太郎は兄よりも高い城に居住することを良しとせず近くの藤之城(養山城)を築きこちらに移動したとある。
関連URL
小河内一族がせめて多くの一族が討死した高松山城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県史Ⅴ』
『吉川家文書』
『毛利家文書』
『新裁軍記』
『萩藩諸家系譜』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/5/15