城データ

城名:高松山城

別名:愛宕城,熊谷城,高松城,高松古城,三入高松城

標高:339m

比高:300m

築城年:戦国時代初期

城主:二階堂是藤,熊谷氏

場所:広島県広島市安佐北区可部町

北緯:東経:34.525621/132.521445

高松山城はここ

攻城記

登城口から登っていく。

途中神社がある。

途中の井戸跡。

山頂手前の曲輪(神社がある)。

熊谷直時の居城 承久三年頃とある。

そのまま進む。

二の丸跡。

山頂からの風景。

井戸跡。

周辺の曲輪。

 

位置関係

 

open-hinataより【高松山城】

 

 

余湖図【高松山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』高松山城

 

 

城の概要

本城跡は西と南は根ノ谷川が流れ、北には桐原川が流れており、これらを天然の堀として利用している。本城跡の東には、桐原と上原を結ぶ街道が南北に走っており、白木山山系と高松山を分断している。

遺構は、東西に主軸線を置き、南に派生する尾根を加えてT字型に郭を配する構造をもっている。

 

四つの郭群に分かれ、大小22の郭によって構成されている。

 

山頂郭群には、最高所の1郭を中心にして四方に延びる尾根上に郭がある。郭の北と西には一つずつ腰郭があり、東には長方形の大きな郭がある。

 

この一帯には石が散乱しており、石垣が築かれていたようである。さらに堀切状の郭を挟んだピークも郭とし、そこから北東に延びる尾根上に三つの郭が階段状に並んでいる。

 

麓の土居屋敷跡へ続く道を押える遺構であると思われる。山頂部の南下の腰郭には石組井戸がある。その南には尾根上に七つの郭があり、これが南郭群である。

 

南端部は石垣を備えた馬蹄形の帯郭となっており、その南下には尾根続きを遮断する堀切がある。ほかに高松神社のある西郭群と井戸をもつ東郭群がある。

城主は熊谷氏である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

高松城は、三入荘の南、根谷川左岸の標高三三九mの高松山に所在する熊谷 いり 氏の居城である。熊谷氏は、信直の代に伊勢が坪城より移り、以後、関ケ原の 戦で敗れた毛利氏に従って萩に移るまで、戦国時代を通してその拠点とした城 である。

 

『芸藩通志』によれば、熊谷氏以前にも城郭とし て用いられており、高松城に拠った二階堂是藤が 熊谷直時に攻められて城を出たとある。

 

南北朝時 代に入ると、安芸守護武田氏の指揮下で戦乱に参 加した熊谷氏は、しばしば戦功をあげ、そのつど 所領安堵や新恩給与を受けている。

 

天文年間(一 五三二~五五)には、武田氏から離れて毛利氏の 支配下に入り、毛利氏の領国拡大過程における合 戦にしばしば軍功を積み、毛利氏や大内氏より恩 賞・所領を給与されている。

 

一方、熊谷氏の庶流 も毛利氏直属の家臣として取り立てられていった。

 

郭は、山頂部を中心として北・西・南の三方に 延びる尾根に沿って階段状に二十以上設けられて いる。

 

本丸と推定される頂部の郭は幅二〇m×長さ六五mあり、西半分が若干高くなって二段にな っている。

 

本丸の西側には幅二〇m×長さ二〇m の二の丸と推定される郭があり、本丸の南下に向 かって帯郭が延びている。

 

さらに西側は空堀一つ 置いて神社のある小さな郭に達する。この西下に 幅一〇m×長さ三五mの三の丸と推定される郭が 完端には数か所の郭がみられる。

 

神社のある郭より本丸の南下に向 かって帯郭状の通路が延び、約八〇mで馬場跡と推定される幅七m×長さ四五 mの細長い郭に達する。

 

東端には石組の井戸があり、さらに幅二〇mx長さ一 二mの郭となる。この南下にも数か所の郭が確認された。

 

本丸の東端には石垣 が認められ、空堀状の郭を挾んで幅二〇m×長さ一五mの鐘の段と推定される 郭がある。

 

この郭の北下には帯郭が認められ、数か所の郭が設けられている。 郭の名称と大きさを知る文献資料としては、文化十四年(一八一七)の「下町 屋村山郷野上改帳」がある。

 

それによると、本丸(縦三十間、横二十間)、二の 丸(縦十五間、横十間)、三の丸(縦十五間、横十間)、与助の丸(縦十二間、横 十間)、馬場(縦三十五間、横五間、井戸一つ)、かぶとの丸(縦十五間、横十一間)谷が坊寺跡(十四間四方)、明覚寺古屋敷(縦八間、横七間)、観音古屋敷 (縦十五間、横六間)、鐘の段(縦十四間、横十三間)、井戸(深さ二間、石積)、 愛宕社堂宇(梁桁一間四方)となっている。

 

土居屋敷は、熊谷兵庫頭高直が築いたといわれるものが城の北西麓の水田中に存在し、大きな石垣が「[」の字状に残っている。

 

石垣は東西四〇m×南北 四五mの大きさで、中央には門跡、前面には堀の跡がみられる。この土居は、 熊谷氏が高松城に移ってからは政庁となった所で、前述の「下町屋村郷山野上 改帳」には、広さ二反、高さ六尺とある。

 

熊谷氏ゆかりの神社としては、直時が甲斐国より勧請したという三入の八幡宮(『芸藩通志』)があり、寺院では集福寺、蓮華寺、曼陀羅寺、観音寺、薬師堂 などがある。

 

蓮華寺は、伊勢が坪城内に所在し、元直の寺といわれたが、のち に下中野に移って熊谷山蓮花院と号したという浄土宗の寺である。

 

熊谷氏の祖直実が法然上人から授かった迎接曼陀羅を安置したという曼陀羅 寺は上原にあり、観応二年(正平六、一三五一)の開山で、奥坊、浄安寺、竹林 寺、新坊、報宗坊、地蔵院、谷坊二か所、南光寺、正観寺、勝円寺、宝蔵坊の 十二坊を擁していたと伝える。

 

現在は、小さな観音堂が残っているのみで、像高一・三mの十一面観音立像が納められている。熊谷氏は、三千石の所領のう ち、三百石をこの寺の寺領こしたという。

 

熊谷氏の菩提寺正法山観音寺跡は、土居星敷と相対する根谷川右岸の山麓にある。

 

前画には巨石で築いた長さ一一〇m、高さ三mの石垣がみられる。現在 は小さな意が残存しているのみで、堂内には熊谷氏の定紋を膨んだ室町時代の 乳祭照がある。

 

天文十年には、大内義隆がここを本陣として一年あまり滞在し ている(『房顕覚書』)。

 

菩提寺の南側には約四十基の五輪塔・宝談印塔が存在す る墓所があり、萩に移ったのちも再三使者をこの墓地に送って募参りさせている。

 

『日本城郭大系』13より

 

高松城跡

安佐北区可部町下町屋

根谷川東岸の高松山(三三九メートル)山頂付近にあり、 中世、三入庄地頭であった熊谷氏の居城跡。県指定史跡 「熊谷氏の遺跡」の一部に含まれる。「芸藩通志」には「二階堂是藤高松城に居る、熊谷直時に攻られ城を出」るとあるから、熊谷氏入城前にすでに城としての役割を有 していたと考えられる。

 

熊谷氏が当城を拠点とする時期 については説が分れるが、熊谷氏系図(熊谷家文書)の信直 の所に「生得家城ハ、三入之塩カ坪ニて有ツレトモ、信直代ニ、三入之高松家城ニス」と記される。

 

三入庄の南端に進出し、峻険なこの城へ入城するのは熊谷氏歴代の ちでも力の充実した室町末期の信直の頃とするのが妥 当であろう。

 

それ以前の居城は、だ桃村の伊勢ヶ坪城(塩ヶ坪城)であった。

山頂付近には、本丸・二の丸・馬場・井戸・鐘の段・ 明堂寺跡など規模の大きい郭が配置され、遺構の全長は 二〇〇メートルにも及ぶ。西麓には熊谷氏の土居屋敷跡 がある。

 

また「芸藩通志」によれば下町屋村には「観音寺山・宇禰能上・雨山・山根・門田山・王子」の各城跡があり、いずれも城主不明であるが、熊谷氏の属城とされる。

 

なお高松山は、元徳三年(一三三一)三月五日の熊谷直勝譲状(熊谷家文書)によると「海山・今山・円山」な どとともに子息直氏に譲与されている。

『広島県の地名』より

 

 

熊谷氏菩提所・観音寺跡

観音寺跡の巨大な石垣。

熊谷元直が討死した時に妻が腕を切り落として戻り、この泉にて洗ったとの伝承がある。

 

 

観音寺跡内。

 

熊谷氏墓所

 

 

 

 

熊谷信直墓

 

 

 

 

土居屋敷跡

広島県史跡 熊谷氏の遺跡・土居屋敷跡

指定 昭和45年1月30日 広島市可部町大字下町屋字土居

熊谷氏と三入荘
承久の変(1221)で勝利をおさめた鎌倉幕府は、戦功のあった武将たちを西国各地の守護・地頭に任じた。

 

武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の熊谷氏は、安芸国三入荘(現在の大字大林、桐原、上・下町屋付近)の地頭に任ぜられると、間もなくこの地に移り伊勢ヶ坪に城を築いた。

その後、室町期に入ってから戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。

 

また、この屋敷と根之谷川をはさんで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。

土居屋敷跡 

伊勢ヶ坪から高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正19年(1591)毛利氏に従って広島に移るまで、平常使用していた屋敷・政庁跡である。

 

背後に高松城(海抜高度339m)をひかえ、前面の根之谷川を天然の堀とした要害の地にある。

屋敷跡の広さは約20アールと推定されるが、現在は、わずかにL字型に残る石垣にその跡をとどめる。

 

なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられている。

 

また、この付近一帯の字を土居というが、これは有力な地方豪族の屋敷を中心とした中世の集落が、この地に存在していたことを物語るものである。

 

説明板設置については、ここの土地所有者で、熊谷氏の子孫と伝えられる岡太直氏の承諾を得たものである。

 

昭和52年3月1日 広島市教育委員会

 

看板より

 

現在、巨石を使用した石垣が南北方向に約30m残っています。

 

この石垣が門から北側部分の範囲を示すと思われるので、門幅を2~3mとすると、屋敷内部の規模は約60m四方に復元できます。

 

また、屋敷の西と南の土地区画からは堀跡が復元できるので、北側にも堀が巡っていたことが推定されます。

 

本屋敷跡は、熊谷氏が伊勢が坪城から高松山城へ移った頃築かれたといわれています。

「広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』1993より転載

 

門前。

奥から正面に向かって。

当時、熊谷信直も通ったであろう。

独特の石積み。

 

 

概要

現在、巨石を使用した石垣が南北方向に約30m残っている。

 

この石垣が門から北側部分の範囲を示すと思われるので、門幅を2~3mとすると、屋敷内部の規模は約60m四方に復元できる。

 

また、屋敷の西と南の土地区画からは堀跡が復元できるので、北側にも堀が巡っていたことが推定される。

 

本屋敷跡は、熊谷氏が伊勢が坪城から高松山城へ移った頃築かれたといわれる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

土居屋敷跡 安佐北区可部町下町屋

根谷川左岸、高松山の西麓にあって、正面(西側)と北側の一部に築地の石垣が残る。

 

三入庄の地頭熊谷信直・高 直・元直の屋敷跡と伝えるが、熊谷氏の高松城進出と密 接な関係をもって成立したと考えられる。

 

「芸藩通志」は 「熊谷氏宅址」とし「今に石壇一町余あり、宅の跡は畑と なり、一堂字あり」とするが、現在堂宇は失われている。

 

石垣は菩提所の観音寺跡のものに比べ、やや石材が小さ く、技術も劣るが、同時代の作と考えてよかろう。

 

県指定史跡「熊谷氏の遺跡」の一部に含まれる。

 

『広島県の地名』より引用

 

城の歴史

熊谷直時の居城 承久三年(1221)頃とあるが、これは熊谷氏が可部に所領を賜った頃と考えられる。

 

戦国初期の当主であった熊谷信直時代に本格的に加工されたと思われる。

 

その起因となったのが、安芸国守護である武田氏との不和で合戦が起こったが関係ある。

 

横川合戦(熊谷信直ウッキペディア)より

天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。

 

ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。

 

兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。

 

それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。

 

三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。

 

この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。

 

また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。

 

武田光和と横川合戦(西祇園公民館のサイトより)

 

城主家系図(熊谷信直以降)

城主石高

 

所感

●比高もあり堅牢な城であったと想像できる。

 

●山頂の曲輪が多く、対武田対策でしっかりと造られている。

 

●山頂からは遠くまで見通せる好立地。

 

関連URL

【広島県】伊勢が坪城【広島市安佐北区可部町大林】

熊谷氏歴代の居城。

【広島県】新城山城【広島市安佐北区可部町桐原】

新庄熊谷氏の居城。

【広島県】友近城【広島市安佐北区可部町大林】

 

【広島県】山田城【広島市安佐北区可部町桐原】

【広島県】新宮城【広島市安佐北区可部町下町屋】

【広島県】申宮城【広島市安佐北区可部町城】

近隣の山城、庶流の城。

 

参考URL

高松山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(安芸高松山城)

西国の城(高松山城)

高松山城(広島市)

土居屋敷跡(広島市)

土居屋敷(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『陰徳太平記』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『日本城郭大系』13

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩諸家系譜』

『可部町史』

『萩藩閥閲録』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/5/12

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