城データ
城名:新宮城
標高:98m
比高:34m
築城年:不明
城主:末田氏
場所:広島県広島市安佐北区可部町下町屋
北緯:東経:34.537486/132.528769
攻城記
三入八幡宮が本丸になるので階段を上がっていく。
別の方にも道がある。
本殿到着、この部分が本丸か。
銅製梵鐘。
三入神社は甲斐国から勧請されたようだ。
崇道神社跡
第五十代桓武天皇は即位にあたり、弟君の早良親王を皇太子に 任ぜられました。
その後、宮中において暗殺事件が起こり、連座 した咎により親王は絶食をもって身の潔白を上申されましたが その疑いは解けず淡路島に送られることとなりましたが、親王は 淡路島に渡らず西下され、当時天皇領であった三入保を、安住の 地として生涯を終えられました。
早良親王は、のち延略十九年(一八〇〇年)桓武天皇より、崇道天皇 と追号され、霊を慰められた旨、歴史書に記述されております 可部町史によると、文暦二年(一二三五年)この地域の守護職、 藤原親実が地頭職、熊谷時直と資直に寄合い沙汰の旨、記述 されております。 当石積みが、崇道天皇御陵跡と伝えられております。
境内裏の曲輪。
かなり広い。
城域には石が人為的に置かれているところもある。
堀っぽい。
位置関係
open-hinataより【新宮城】
余湖図【新宮城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』新宮城
城の概要
本城跡の下で根ノ谷川と桐原川が合流している。この地点は三入新庄への入口に当たる。
遺構は、最高所の1郭とその南の三入神社境内の郭が残るのみで、城郭の全体構造を把握することは困難である。
三入神社は、熊谷氏が甲斐国から勧請し、社領を寄進されるなどその保護を受けたという。
『群中国郡誌』によれば、末田氏が元亀年間(1570~1572)から社職を務めていたとあり、1572(元亀3)年には熊谷高直が鋳鐘を寄進しており、この頃から末田氏が新宮城を支配していたと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
この付近で「横川合戦」というものがあった、新宮城もこの横川合戦の時は重要な位置づけだったと思われる。
熊谷信直(ウッキペディア)より
天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。
ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。
それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。
三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。
この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。
この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。
武田光和と横川合戦(西祇園公民館のサイトより)
城主家系図
末田氏について
末田氏は熊谷直家の次男である熊谷直重を祖とする。
末田勘解左衛門直忠、末田新右衛門直仲、末田民部左衛門忠共、末田縫殿助
横川合戦の時に主君である熊谷直信に従い奮戦、武田軍を撃退する。
『陰徳太平記』:芸州横川合戦の事
末田四郎・末田藤太郎・末田太郎兵衛尉・末田源四郎
(天正3年)1575:備中国手要要害合戦頸注文『毛利家文書375』の中に記載されている。
末田新右衛門
熊谷家臣として様々な合戦で活躍する。
天文24年(1555):厳島合戦およびそれに関連する戦で活躍して毛利元就から熊谷信直へ手紙に名前が載る。
末田勘解由末直
永禄5年(1562):毛利元就の石見国攻略時に熊谷家臣として末田勘解由末直が活躍するとある。(『陰徳太平記』)
所感
●神社の境内になっており遺構は不明瞭、境内の裏にはけっこう広い面積の曲輪がある。
●また大手道?から外れたところにも曲輪っぽいものや堀切、もしくは石積みの加工したものがあった。
●三入神社は熊谷氏の祈願社であったらしい。
●新宮城は普段は神社として機能しており戦になると立て篭もる様になっていたのかもしれない。
●現在の神主さんも末田氏
関連URL
近隣の重臣水落氏の居城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『萩藩閥閲録』
『新裁軍記』
『毛利家文書』
『可部町史』
公開日2021/05/08