城データ
城名:申宮城
別名:水落城
標高:139m
比高:26m
築城年:不明
城主:水落氏
場所:広島県広島市安佐北区可部町城
北緯:東経:34.529252/132.511828
攻城記
申宮城全景。
現在は庚申神社の一部になっている。
庚申神社の由来
庚申神社は「申宮」とも言われ広島安佐北区可部町大字城字土居四一九番(旧水落村)にあり、六手青面金剛、及び「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が祭られています。金剛は、法を護り諸魔を払う強い明王です。
また、三猿は、慎みの生活によって現世に利益をもたらす「福の神」であります。
更に、三猿はお産の神様として、妊娠、出産、子育ての祈願が行われます。
神社の裏側山頂に申宮城址がありますが、浅野藩による芸藩通志には、庚申神社の記述と共に、同城について「同村(水落村)に申宮城あり、水落備後直綱(三入庄地頭、熊谷氏一族)より数世この地に拠る」との記述があり、熊谷氏の本城である高松山城(1470年頃=戦国時代初期)に対する西の支城と認められます。
また、文政三年の古文書には「水落村は下町屋村と共に、横川合戦の古戦場である」ことが記されています。
横川合戦とは、天文二年(1533)熊谷信直(三入庄、熊谷氏一二代)の高松城を武田光和が攻め、武田方が破れた戦いです。
以上のとおり、庚申神社は申宮城址と共に歴史的な遺跡であって、庚申信仰、地域の守護神として崇敬されているものであります。
庚申信仰が盛んに行われているところとして、寅さんで有名な東京葛飾柴又の帝釈天、京都の八坂庚申堂、大坂四天王寺の庚申堂があります。
看板より
神社を目指していく。
庚申神社本殿に到着。
※ここが昔は城主の居館だったのかもしれない。
神社の裏山を登っていくとこのような曲輪がある。
付近の石垣。
眼下を望む。
人為的に管理されている感じもうける。
本丸。
本丸はそこまで広くは無い。
土塁。
下を見下ろす。
周辺の削平地。
高松山城も確認できる。
主郭から西に降りた部分から主郭を見上げる。
曲輪にはこのようなものがあった。
この山は「戸田山」というらしい。
位置関係
open-hinataより【申宮城】
余湖図【申宮城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』申宮城
庚申神社は昔は「申宮」と言っていた。
又、庚申寺というものがあったらしい。
城の概要
本城跡は、根ノ谷川を挟んで高松山城と対峙する位置にある。
1郭の北東南に一つずつ郭を置き、1郭は二段に造られている。
西側尾根続きには堀切を設けている。東側の郭直下及び南側の郭中央部に石垣が残っている。
この石垣のうち東側の郭に残っているものは、門跡と考えられる。
また東側の郭から南側の郭へは帯郭によって連絡路が設けられている。
本城跡は、北に三入地区、北東に石州街道、南に舟山城跡、東に高松山城跡を望む位置にあり、軍事・交通上の要衝に位置している。
このため郭の構成も西を除く三方を押さえるように配置されている。
城主は武田氏と関係がある水落氏と伝えられており、本城跡が武田氏の可部地域進出のための足がかりとして築城されたのではないかと推測される。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
この付近で「横川合戦」というものがあった、申宮城もこの横川合戦の時は重要な位置づけだったと思われる。
熊谷信直(ウッキペディア)より
天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。
ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。
それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。
三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。
この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。
この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。
武田光和と横川合戦(西祇園公民館のサイトより)
城主家系図
萩藩諸家系譜などでは、水落直綱は熊谷堅直の子どもになっているが、年代的に無理がある。
『新裁軍記』では水落直綱は熊谷元直の叔父という関係になっている、この為、水落直綱は熊谷宗直の子どもの可能性もある。
古文書では1575年頃に「神五郎」や「甲斐守」という水落一族がいたことが分かっている。
上記の直綱、直政、神五郎、甲斐守との親子関係は不明。
水落氏について
水落氏は熊谷氏の庶流であることは間違いない。
萩藩諸家系譜では、熊谷堅直の子どもとしているが、年代的に無理がある、『新裁軍記』では元直の叔父とあるがその可能性も否定でき無。
水落直綱
熊谷堅直もしくは、宗直の子ども。
俗名は源之允か。官途名は備後守
1517年の有田中井手の戦いおいて主君である熊谷元直ともに、武田元繁に従い従軍する。
武勇誉れがある武将であったが、元直が討死した時に大坪氏、細迫氏、桐原氏らとともに敵陣に突っ込み討死する。
水落直政
1533年の横川合戦の時に主君である熊谷信直の家臣として末田直忠・直久兄弟、岸添清直、等とともに、城を守り切る
水落神五郎
永禄年間(1558~1570)の『熊谷文書』134に水落神五郎の名前がある。
(天正3年)1575:備中国手要要害合戦頸注文『毛利家文書375』の中に記載されており、頸1つを討ち取っている。
(天正3年)1575:この頃の書状の中に水落神五郎が出てくる『萩藩閥閲録』170巻-6 財満瀬兵衛
水落甲斐守
天正4年(1576):吉川元春と熊谷信直の書状の中で「水甲」として名前が出てくる。『萩藩閥閲録』巻13-33 山内縫殿
天正14年(1586):野坂家文書の中に水落甲斐守として出てくる。
文禄2年(1593):熊谷家の目録に関して熊谷家の重臣である、水落甲斐守・細迫三衛門・桐原惣右衛門に託している。
『萩藩閥閲録』巻27‐151 熊谷帯刀
『熊谷文書』 172
同年代に水落神五郎と水落甲斐守が書状に出てくるので、同一人物の可能性もある。
所感
●城跡が神社となる典型的なパターン。
●登り始めて15分で南の曲輪に到着する。
※この場所しか展望がきかない。
●石垣の跡もある。
●本丸以外に大きな曲輪は無い。
●西に行けば堀切もあるようだが確認不足していない。
●高松山城の西の対面にありその間には根の谷川が流れている(横川のこと)
●水落氏は熊谷一族の中では有力庶流だったと考えられる。
関連URL
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『萩藩閥閲録』
『毛利家文書』
『熊谷家文書』
『萩藩諸家系譜』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/08