城データ

城名:山田城

標高:171m

比高:90m

築城年:不明

城主:山田氏か

場所:広島県広島市安佐北区可部町桐原

北緯:東経:34.532636/132.538395

山田城はここ

 

攻城記

山田城全景。

手前の小山は「新城山城」さらに奥の高い山は「高松山城」

城の規模は小さい、また住宅地等で改変されている。

本丸北の小曲輪。

本丸。

周辺の曲輪。

若干の窪みあり。

曲輪。

 

位置関係

 

open-hinataより【山田城】

 

 

余湖図【山田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』山田城

 

 

城の概要

周辺の宅地化のため、城跡の全容は把握できないが、最高所の1郭とその北の郭が確認できる。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

城の歴史

この付近で「横川合戦」というものがあった、新宮城もこの横川合戦の時は重要な位置づけだったと思われる。

 

熊谷信直(ウッキペディア)より

天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。

 

ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。

 

それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。

 

三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。

 

この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。

 

この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。

 

武田光和と横川合戦(西祇園公民館のサイトより)

 

 

城主家系図

山田重吉と重任の関係は不明、山田与八も一族だと思われるが関係は不明。

 

山田氏について

山田氏は熊谷信直の次男である山田重吉を祖とする。

 

山田重任

天文2年(1533年)の横川合戦時に主君である熊谷氏ではなく、武田方として戦に参加している。

一族ではあるが山田家当主かどうかは不明。

 

山田与八

(天正3年)1575:備中国手要要害合戦頸注文『毛利家文書375』の中に記載されている。

 

所感

●城というよりは砦、住宅地になり大きく改変されているので、以前は他のところにも曲輪があった可能性もある。

●近隣にも多くの城があり、熊谷氏の庶流として守っていたに違いない。

●1533年の横川合戦では武田方として熊谷氏に攻撃を仕掛けているが、その後どうなったのか不明。

●1575年の戦いで山田与八という人物が首1つ上げているが、この山田氏との関連は不明。

 

関連URL

【広島県】新宮城【広島市安佐北区可部町下町屋】

同じ庶流の末田氏の居城。

【広島県】申宮城【広島市安佐北区可部町城】

同じ庶流の水落氏の居城。

 

参考URL

山田城(広島市)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『毛利家文書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/08

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