城データ
城名:鏡山城
標高:40m
比高:30m
築城年:不明
城主:中山氏
場所:広島県広島市東区中山
北緯:東経:34.411529/132.498844
攻城記
鏡山城全景。
神社の階段を上がったところ。
ここも曲輪だと思われる。
帯曲輪。
城から見下ろす(矢賀方面)
戦国時代以前はこのあたりは海であった。
本丸にある本殿。
神社側面にある土塁。
本殿裏の曲輪。
麓は急で登ってこられない。
ここも曲輪跡か。
open-hinataより【鏡山城】
余湖図【鏡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』鏡山城
城の概要
城域には、現在稲生神社が建立され、背後には住宅団地が造成されている。
八つの郭を推定できるが、全体の規模をうかがうことは困難である。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
位置関係
城の歴史
室町時代には武田の支配下に入り「知新集」によれば当地には武田氏家臣中山氏がいた。
中山正信は甲斐から来住して中山に寓居、のち仏護寺の開祖となった。武田滅亡後、のち毛利氏に帰順仏護寺も再興された。
中山氏については「陰徳太平記」に武田氏家臣としてみえる以外に微証がないが、中山の入口を扼える鏡山城に拠っていた土豪であろう。
なお弘治二年(1556)10月23日の大内義長宛行状に「中山七十五貫文地 温科遠江守跡」とみえ武田氏時代に中山が温科の領有下にあったと推定されるが、中山氏と温科氏の関係は不明。
所感
●中山の地は太古の昔には旧山陽道が通っており安芸府中から矢賀~温品を通って中山から峠を登り戸坂へ下って大町の方にいくルートであった。
●古来交通の要所であったことは間違いない、そのようルートに関所のような感じで監視の役目として鏡山城が出来たと想像できる。
●隣は温品なのでお互いに土豪として関係を持っていたものを考えられる。
●毛利の家臣にも中山姓はいるが同族かは不明。
●神社の社殿の裏にかろうじて土塁の痕跡がうかがわれる。
●帯曲輪には木が無いので非常に分かりやすい。
●社殿の北にも郭があるがその方向から下を見下ろすとかなり急峻でありこちらからは攻めにくい。
●一部畑になっているところもあった。
関連URL
近隣の領主である温科氏の居城。
近隣の領主である中山氏の居城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/04