Pocket

 



城データ

城名:永町山城

標高:58m

比高:26m

築城年:不明

城主:金子氏 温科氏

場所:広島県広島市東区温品(ぬくしな)

北緯:東経:34.418960,132.513188

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

道なりに見えるるのが永町山城。

本丸から下を見下ろす。

二の丸。

三の丸。

三の丸から二の丸を望む。

三の丸から下を見下ろす。

再び本丸。

竪堀:城自体は急峻な造りになっている。

近くには川も流れており堀の役割を果たしている。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

縄張図

『北谷山城跡発掘調査報告』より引用。

『芸藩通志』永町山城

 

 

 

城の概要

本城跡は、温品川の作りだす沖積地の最奥部の独立丘陵系に位置している。

郭は螺旋状に三つの郭をそれぞれ2.5m~4.5mのレベルをもって配している。

また南側の背面は堀切によって断ち切り、城郭の周辺は急峻な斜面とし、郭間に竪堀を設けている。

同一尾根上南側約170mの地点に北谷山城跡があり、永町山城が居館、北谷山城が詰城と考えられる。

城主については、温科左衛門家行と伝えられている。築城期については調査が堀切の一部のみであり、明らかにできない。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

『北谷山城跡発掘調査報告』

永町山城跡は,温品川の造り出した沖積地の最奥部に位置する独立丘陵を利用して築かれた山城である。

 

構造は,丘陵の形状から郭を螺旋状に3郭配し,郭間には縦堀りを配している。また,搦手には,堀切を設けることにより,城跡の周囲は急酸な斜面となっている。

 

さらに,本城跡は,城跡西側を流れる温品川を天然の堀として利用するなど,自然地形を最大限利用しているが,城跡が小規模であるため,防禦機能が弱いことは否めない。

 

このことは,本城が戦国期の戦闘を目的とした城跡とは異なり,守りより領国経営を目的に築かれたことを物語っていると思われる。

 

また,本城跡と立地,形態,構造等において同様の傾向をもつ城跡は,第3表のようになり,これらは河瀬正利氏の型式分類によると,第1型式(土居型式)(注2)の山城にあたるものである。

 

第3表からもわかるように,これらの山城は,東国の本貫地に本拠を置いていた中小の武士が,安芸国に下向した際に築城したものであり,築城時期は,概ね鎌倉期から南北朝期に比定されている。

さて,温品の地に目を向けてみると,承久3年(1221)承久の変の功により,武蔵国金子郷の金子氏が温品村の地頭職に補任されている(注3)

 

その後,金子氏は,貞治6年(1367)までの間,温品村の地頭職であったと考えられるが,(注4)これ以後,温品村の地頭職は明確にし得ない。

 

しかし,嘉慶元年(1387)(注5)及び康應元年(1389)(注6)には,温品村の地頭大蔵少輔,金子大炊助により国領が押領されている。

 

この金子大炊助は,地頭でないにしても,それに近い地位にあったものと思われる。

 

永町山城跡は,前述したように,立地,構造,形態等から考えて,第1型式の範疇に含まれるもので,温品の他の山城と比較した場合,最も早い時期に築城された可能性が高い。

 

さらに,第3表のように,第1型式の山城は,鎌倉期から南北朝期を中心に西遷武士により築かれていることから考えて,永町山城跡の築城者は,当時温品村の地頭職であった金子氏をあてるのが妥当であろう。

 

本城跡の築城時期については,郭部分の調査を実施していないため,断営は避けたいが,以下の2点より,ある程度推測ができよう。(注7)

 

①金子氏は,武蔵国金子郷に本貫地を持っていた武士で,温品(現広島市)のほかに玖村(現広島市)や斑鳩(現兵庫県楫保郡)(注8)西之土居(現愛媛県新居浜市)(注9)に下向している。

また,その時期は,玖村が遅くとも正安3年(1301),注10)斑鳩・西之土居が鎌倉中期(注11)には下向している。

 

②温品村には,建治元年(1275)に地頭代が置かれている。(注12)

 

以上のことより,本城跡の築城時期は,他の金子氏の動向から,建治元年以降の鎌倉末期,それも正安3年を前後する頃に求められよう。

 

次に,本城跡の廃城時期についてであるが,築城時期と同様明確にはし得なかった。

 

ただし,空堀内から検出された備前焼の破片は,口縁部を長く折り返した玉縁を造り出しており,T期後半頃(注13)の特徴を有している。

 

また,芸藩通志によると,本城跡の城主を温科氏としているか(注14)その温科氏は明応8年(1499)に武田氏に対し謀反をおこし,誅伐されている(注15)ことから,これらは,本城跡の廃城時期を考える上で,一つの手掛りとなろう。

 

最後に,温科氏と温品の金子氏の関係について若干ふれてみたい。

 

温科氏と金子氏の唯一の接点は,康永11年(1404)の国人一揆契状に求められるが,(注16)

 

両者の関係は明確にはし得ない。しかしながら,康應元年 (1389)を最後に温品の金子氏は,文献上からその姿を消し,(注18)

康永 11年(1404)には,温科氏が文献上に登場している(注19)。

 

このことは,比較的短い期間でスムーズに,永町山城跡の城主交替が行なわれたことを物語っていると思われる。

 

その上,この時点で温科氏は,国人一挟契状与を結ぶほどの勢力を有していることなどから考えて,温品の金子氏が在地名をとって温科氏と称した可能性も捨てきれない

 

(注2) 河瀬正利「広島県における中世山城跡について」『芸備地方史研究110,111合併号』 1977年

(注3) 『毛利家文書』 1493号

『毛利家文書』 1504号

(注4) 『毛利家文击』1494号

『毛利家文書』 1502号

『毛利家文書 1504号

(注5) 『東寺百合文書 193号

(注6) 『東寺百合文書』 198号

(注7) 『芸備郡中士筋者出」所文書1号

『芸通志』巻41

(注8) 埼玉県入間市公文書館平岡氏の御教示による。

(注9) 『日本城郭大系第16巻1980年

(注10) (注7)と同じ。

(注11) 斑鳩については,(注8)と同じ。

西之土居については,愛媛県新居浜市教育委員会の御教示による。

(注12) 『藤田精一旧蔵文書』1号

(注13) 間忠彦·子厂備焼研究ート」『倉考古学馆研究報』1.2.5号1966〜1968年

(注14) 『芸滿通志巻4

(注15) 毛利家文』167号

(注16) 『毛利家文書24号

(注17) 芸備郡中士筋者出収入文書 1号

(注18) (注6)と同じ。

(注19) (注16)と同じ。

 

 

 

金子氏・温品氏時系列

承久3年(1221):金子某(慈蓮か)が温科村の地頭に補任される。

 

文保元年(1317):金子盛忠,養子乙千代丸に安南郡温科村地頭職を譲る。(毛利家文書1494)

 

観応元年(1350):足利尊氏が直義追討のため,金子信泰らに出陣の用意を命じる。(毛利 文書1495)

 

文和3年(1354):金子信泰,息千代市丸に安南郡温科村地頭職を譲る。(毛利家文書 1502)

 

貞治6年(1367):安芸守護武田氏信,金子信泰に安南郡温科村惣地頭職を預け置く。(毛利文書 1504)

 

 

 

 

 

嘉慶元年(1387)、康応元年(1389):温品村の地頭である、大蔵少輔、金子大炊助により国衙領が押領される。

 

応永11年(1404):安芸国一揆に国衆として温品出羽守親理が参加する。(毛利家文書24)

 

金子勘解由左衛門信親という人物も一揆に参加している。

 

 

応永 14年(1407):安芸守護,再び反守護の動きをした金子某を退治(毛利家文書 34)

 

明応8年(1499):温科国親,武田元信に叛く。幕府,国親退治のため,毛利弘元に元信代への合力を命じる。(毛利家文書 167)

 

 

16世紀に入ると,温品は,武田氏,大内氏の支配下に置かれていく。

大永5年 (1525)には,大内氏から毛利氏に対し温科 300貫の地を預けられている。(毛利家文書251)

 

この頃には温科氏はこの地に勢力はなく、庶流が残っているに過ぎない状況であったか。

 

城主家系図

 

親子関係は証明できない、温科親理と国親には最低でも1~2世代入る。

 

温科一族

温科親理

1404年に安芸国一揆に33人の国衆の1人として温品出羽守親理が参加している。

 

温科国親

武田元信の家臣であったが1499年に大内氏に加担すべく謀反をおこす、しかし毛利弘元や熊谷膳直ら周辺の安芸国人も室町幕府の命令で出陣し、叛乱は鎮圧された。

 

温科盛長

大内家臣、1532年少弐資元が籠もる立花山城攻撃で戦果を挙げる

(ウッキペディア)より

 

温品種重

大内家臣、後毛利家臣。

(ウッキペディア)より

 

温科家行

武田元繁家臣。永町山城主かは不明。通称左衛門。

1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和に従って品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、山田重任、飯田義武、板垣繁任らとともに熊谷信直勢と戦ったが大敗。

『陰徳太平記』より

1499年に温科国親が滅ぼされているので、その庶流が武田家に付き従ったものと考えられる。

 

温科家親

武田氏に仕えた温科一族、怪力の持ち主、1499年に武田家に謀反をおこした国親に近い人物か。

『陰徳太平記』より

 

温科家親の娘は広島市佐伯区坪井あたりを治めていた厳島神領衆である新里隆溢に嫁ぎ坪井元政を生む。

家親もその娘も坪井元政も怪力でその娘も怪力だったとの伝承がある。

 

 

温科遠江守

弘治2年(1556)10月、大内義長が白井賢胤に温科遠江守跡の阿南郡中山七十五貫文を与えようとしている。

 

 

温科刑部丞

弘治3年(1557)の書状に温科刑部丞の名が記されている。

 

『新裁軍記』より

 

温科弥左衛門

1592年頃の毛利家臣の分限帳に名前がある。

『毛利八箇国御時代分限帳』より

 

温科安立

1592年頃の毛利家臣の分限帳に名前がある。

『毛利八箇国御時代分限帳』より

 

城主石高(1592年頃)

温科弥左衛門 108.797石

内訳

32.276 長門 大津

76.521 長門 阿武

 

温科安立 2.400石

長門 豊田

『毛利八箇国御時代分限帳』より

 

温科国親が1499年に滅ぼされているので、その後庶流が生き延びていたと考えられる。

 

位置関係

 

戦国時代当時の海岸線

城の付近まで海岸線が迫っており、海城の性格も有していた可能性もある。

 

所感

●比高も高く無く一見したら城?と思う感じであるが登り口なく急峻になっているので本丸に行くのが困難。

●本丸、二の丸、三の丸とあるが平削しており、広さはある。

●居館の城であり中世鎌倉時代にあった、吉川氏の駿河丸城や熊谷氏の伊勢が坪城、平賀氏の御薗宇城と同じような感じである。

●温品では貝塚も発見されており、隣の矢賀も江戸時代に埋め立てられる前は浦であった為、温品も海の河口近くの城と考えられる

●現在温科氏は山口県の徳山に多い

 

関連URL

【広島県】恵下山城【広島市安佐北区玖村】

同じ金子一族の城。

【広島県】鏡山城【広島市東区中山】

近隣の領主である中山氏の居城。

【広島県】多々万比城【広島市東区矢賀】

近隣の領主である大須氏の居城。

 

参考URL

全国遺跡総覧(北谷山城跡発掘調査報告)

城郭放浪記(安芸永町山城)

温品氏(ウッキペディア)

永町山城(広島市)

戦国日本の津々浦々(温科国親)

戦国日本の津々浦々(温科)

 

参考文献

『芸藩通志』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『毛利家文書』

『広島県史』

『新裁軍記』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

公開日2021/05/04

ホームに戻る

攻城一覧

 



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.