城データ
城名:多々万比城(たたまびじょう)
標高:70m
比高:67m
築城年:不明
城主:大須三郎
場所:広島県広島市東区矢賀
北緯:東経:34.404230/132.495419
攻城記
多々万比城の矢竹
多々万比城跡
この地一帯は、多々万比城という中世の山城があったところです。
周防国山口の大内義隆方の大須三郎が築いたと伝えられており、城跡全体は明らかにはわかりませんが、三つの郭を階段状に配した
城であったようです。
「知新集」では、戸坂弾正によって亡ぼされたと記されています。
明治後期、政府はこの地一帯を陸軍墓地とする予定を変更して、工兵作業所としましたが、その頃から高天原と呼ばれるようになりました。
昭和40年(1965)広島市はその作業所を借り上げ、墓地公園とし高天原墓園としています。
大内方の家臣であった、大須三郎の居城らしい、しかし、隣の領主であった戸坂弾正に攻められて滅ぼされる。
墓地となっており、本丸部分は大きく改変されている。
曲輪跡を改変したかは不明。
曲輪跡。
降りていく。
削平地。
若干土塁のようにも見える。
所々に窪みがある。
井戸跡かどうかは不明。
曲輪跡。
画面の右は土塁か。
削平地は多い。
上を望む。
位置関係
戸坂弾正がいたと思われる戸坂は隣に位置する。
open-hinataより【多々万比城】
墓苑になり大幅に改変されており現状を留めていない。
余湖図【多々万比城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』多々万比城
中世の推定海岸線
城の麓まで海であった。
城の概要
現在確認できる城跡の背後は宅地造成により消滅しているため、城跡全体を明らかにすることはできない。
残存している郭は、東方に向って延びる支尾根上に1郭を置き、その下方に二つの郭を階段状に配して基本構造とし、1郭南東下方に小郭、2郭の南東から南に帯郭を設けている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
『知新集』に記載されている戸坂弾正に攻められて大須三郎が滅ぼされたことしか分からない。
1499年に近隣の温科国親が大内方に味方をして武田に背いて滅ぼされたため、この多々万比城も大内方に与して武田方の戸坂弾正に攻められたのかもしれなし。
所感
●大須三郎については知新集のみで詳細が不明。
●戸坂弾正についてはおそらく、戸坂の領主である戸坂氏かその一族のだれかであろうと推測される。
●戸坂と矢賀は隣通し。
●城は高天原墓園に隣接する尾根にある。
●山頂には広大な平削地があり、そこから降りていく、墓所があるがそこも郭であったと思われる。
●城自体は小さいが墓園となっておりこれらの場所も城域と考えるのであれば大きさも違ってくる。
●井戸跡らしきものがが多くあったが本当かは分からない。
●中世この付近までは海であった為、大須三郎も水軍の将としての活躍を期待されていたのではないか?
関連URL
多々万比城の城主である大須三郎を攻め滅ぼした戸坂弾正の居城。
近隣の領主である温科氏の居城。
近隣の領主である中山氏の居城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『知新集』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/04