城データ

城名:比叡尾山城(ひえびやまじょう)

別名:畠敷本城,比海老城

標高:420m

比高:220m

築城年:鎌倉時代か

城主:佐々木三吉氏 藤原三吉氏

場所:広島県三次市畠敷町

北緯:東経:34.819229/132.885866

比叡尾山城はここ

 

 

攻城記

山の上まで車でいけて池があるのその付近に車を止める。

そこから上がっていく。

最初の石垣であるがおそらく後世のものと思われる。

削平地をすすんでいく。

最初の曲輪(本丸)に到着

石段がしっかり残っている。

これも何かの遺構と思われる。

 

地元の方が整備されていた。

三次といえば雲海。

秋口にいくと素晴らしい景色に出会える。

曲輪は沢山ある。

謎の石垣。

崩落した石垣。

 

 

比叡尾山城

中世、三次盆地を支配した三吉氏代々の居城で、1591(天正19)年に三次町の比熊山城に移るまでの約400年間続きました。

標高410m、(麓からの高さ220m)の頂上からの眺望は素晴らしいものです。

今でも熊野神社の裏から本来の大手道を登ることができます。

本丸に相当する主郭は南北70m*東西40mで、石垣で組まれた門の跡や土塁も明確に残っています。

複雑に配置された郭は約50を数え、その一つには石組の半地下式の穴蔵跡もあります。

主郭の東の谷にある一画は埋門を構えて側面を堅固な石垣で築いており、相当な規模の建物があったことが想像されます。

あるいは、合戦が日常化する戦国時代には家族が生活していたのかもしれません。

三の丸に当たる郭の北側の斜面下をよく見ると、窪地で水がわき出ており井戸の設備が考えられます。

周囲の入り組んだ土塁と郭は籠城の際大切な水の手(飲み水)を守る役割を果たしていたのでしょう。

さらに、西斜面に幅3m、深さ2mの溝が真っすぐ麓近くまで掘り下げてあります。

これは攻めて来る敵兵を分散させる機能を持つ戦国時代特有の「竪堀」と呼ばれるもので、当時の軍学書にも重要な施設と書かれていま

す。

また、城跡より谷を隔てた東側には三吉氏の菩提寺であった高(光)源寺跡があり、ここには多くの墓石が残っています。

三次市教育委員会

 

岩屋寺

岩屋寺は三吉氏の祈願寺であった。

 

熊野神社

この熊野神社から大手道につながる道があったらしい。

三吉氏墓所(光源寺跡)

三吉隆亮の墓(天正16年1588没)

 

位置関係

 

 

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』比叡尾山城

拡大図。

 

 

城の概要

最高所の1郭を中心に、南に延びる二本の尾根上に多くの郭を構築している。1郭は70m×40mの規模で北と東に土塁を設けており、
石垣や井戸などが確認できる。

この郭の北下の郭は、本城跡中最も大きな郭で土塁、井戸が残る。

1郭東方の鞍部には石垣を伴う数段の平坦面があり、屋敷跡とも考えられる。

城主は三吉氏と伝えられ、天正年間に西方の比熊山城に移るまで使用されたと伝えられる。

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

本丸は七〇m×四〇mの規模で、北半分に土塁を設け、北西隅に井戸と門、 南半分には石垣を築き、南隅にも門を設けて桝形の構えをとり、本丸西南の四 五m×二〇mの郭に下っている。

 

戦国期に修築されたことが推察される。本丸 の北には八〇mX四〇mの規模で井戸・土塁のある郭を、さらに外方周辺には 小郭を設けて守りを固めていた。 本丸から南に延びる尾根には、前述の四五m×二〇mの郭の下に四〇mX四 〇mの郭があった。この郭の西には三段の小郭のほか、水の手とみられる湧水 地がある。

 

また、本丸の東北斜面には腰郭が設けられ、東北方の郭群と階段式 に設けられた東側の尾根の郭とが連絡されていた。このことから、ここが主要 な郭であることがわかる。

 

この郭からさらに南にも階段状の郭が配置され、途 中に堀切があり、その下にも土塁を設けた四〇m×四〇mの郭があった。そし てさらに、ここから南にも大小の郭が配置されていた。 本丸から南に延びる尾根に並行する東側の尾根には、北端に堀切を設け、南 には階段状に多数の郭を設けていた。

 

このほか、本丸の東北方にある郭群は、 本丸との間を湿地で隔て、やや小高くなる場所と平担地にそれぞれ郭を設けて いた。この郭群の下は、のちに畑や水田として利用され、現在は荒れ地となっ ているが、水量は豊富であり、当時はこの城を守るための屋敷地になっていた のではないかと思われる。

 

城の東方には、三吉氏の菩提寺である光源寺があったが、のちに、双三郡君 田村石原の高尾越中がいた福山城の南麓付近に清厳寺として移され、現在は廃 寺となっている。

『日本城郭大系13』より引用。

 

 

 

城の歴史

比叡尾山城は、馬洗

って開かれた三次盆地を南方の眼下に望む三吉氏の拠城である。

三吉氏は、深安郡神辺町竹田の『鼓氏系図』によると、佐々木七郎秀綱が源 頼朝による藤原泰衡追討の際に功を立て、建久三年(一一九二)に三次の地頭職を得て、比叡尾山に城を築いて三吉氏を称したのが初めという。

 

秀網の子秀方 は、承久の変(承久三”=一二二一)に京方に属して敗死し、秀方の子高元はこの 時二歳であったが、伊予国能島で成人し、備前児島に隠れ住んでいたという。

このことから、建久三年から承久三年までは、佐々木氏流の三吉氏が三次にい たことが知られる。

 

比叡尾山城は、規模が大きく、比高差の大きな山頂に立地しており、占地・ 規模・繩張りの状態などからみて、鎌倉期後半から室町初期に築かれ、その後 しだいに拡充されたものと思われる。

 

したがって、鎌倉期前半の築城とするに は疑わしい点が多い。鎌倉期前半の佐々木流三吉氏の居城は明らかではないが、 土居形式の小規模なもので、比叡尾山城のある畠敷の付近に存在していたものと推測される。 藤原姓の三吉氏は、承 久の変ののちに初代の兼範が三次に来て、その子 兼定が三吉大夫と称して 三吉氏を名のった。

 

三代 兼家・四代信兼の頃には 三次周辺に所領を広げ、 五代秀高は元弘(一三三 一ー三四)の頃宮方に属し、のちに足利直冬に従 った。

 

また、子孫は山名氏・大内氏に従い、十三 代致高は、吉田の郡山城 に拠る毛利氏と、しばし ば所領を争った。

 

毛利氏は、元就が本家 を相続するに及んで、芸 備両国の諸氏をしだいに 圧倒するようになった。

 

このため、出雲の尼子晴久は毛利氏の討伐を決意し、天文九年(一五四〇)に尼 子勢は尼子方であった三吉氏の領内を通過し、宍戸(深瀬)隆兼の守る祝屋城 (高田郡甲田町)を攻撃し、翌十年には郡山城を攻めたが、いずれも尼子方の敗 北に終わった。

 

三吉氏は、これを機会に大内氏に従い、同十一年の大内氏によ る富田月山城攻撃にも加わったが、大内方の中に尼子方に転ずる者が続出したため、失敗した。 天文十三年、尼子方は先年の恥辱をそそごうと、尼子国久・誠久・敬久らを 大将として、比叡尾山城に拠る三吉氏を攻撃するため、双三郡布野村に布陣した。

 

そこで、毛利元就は福原貞俊・児玉就忠を大将とする一千余騎を差し向け て三吉方を援助して尼子方を敗走させた。

ついで天女二十二年四月、三吉致高,隆亮父子は、毛利就,隆元あてに「今後、参会し、忠勤する」ことを誓い、この時から毛利氏の魔下に属することになった。

 

広高父子は、毛利元就死後の元亀四年(一五七三)にその子輝元に元就時代と同様に従属することを誓った。

 

そして天正六年(一五七八)に広高は、元 就の七男で米山城・生城山城(東広島市志和町)の城主天野元定と兄弟の契りを 結び、さらに同十八年には元高と広高は、吉川元春の子広家とも兄弟の契りを 結んだ。

 

こうして三吉氏は毛利氏の体制に組み込まれ、翌十九年に広高は本拠 比叡尾山城から西方四畑の比熊山城に移した。

 

比叡尾山城は、比高差の大きい地形を利用し、階段式に郭を配置しており、 鎌倉期後半から室町期前半に築かれた占地形式の城の特徴をよく表わしている。 戦国期にはたびたび補強されたようで、一部に石垣を積んでいる。

 

『日本城郭大系13』より引用

 

年表

1192年(建久3年):源頼朝の「奥州藤原攻め」に功のあった佐々木秀綱が建久3(1192)年、備後国三次の地頭職を給され、比叡尾山城を築き三吉氏を称したとも。しかし秀綱の子秀方が承久3(1221)年の「承久の乱」で後鳥羽上皇方に与して討死にし佐々木系三吉氏は没落する

1221年(承久3年):「承久の乱」後、藤原鎌足を祖とする藤原兼範が備後国三次の地頭職を得て近江から下向して土着し、子の兼宗が(藤姓)三吉氏を称すえう。

 

1507年(永正4年):大内義興が足利義稙を擁して上洛した際の備後衆の中には三吉致高の名が見える。

 

1513年(永正10年):永正10(1513)年には奥石見の国人高橋元光と争い元光を討死にさせる。

 

1516年(永正13年):五龍城主宍戸元源とともに毛利興元を「志和地長野」にて攻撃する。

三吉+宍戸VS毛利

1518年(永正15年):尼子側の木梨氏が大内軍の拠点赤屋陣屋(世羅郡)と沼隈郡山南(サンナ)を攻撃したため 毛利・三吉氏が救援に赴く
三吉+毛利VS木梨

1535年(天文4年):三吉到高(ムネタカ)が比叡尾山の麓にある熊野神社に本尊として阿弥陀如来座像を寄進する。

1540年(天文9年):尼子晴久が郡山城を攻撃するため備後路から安芸に侵攻した際には、致高の子隆亮が新宮党の道案内をして宍戸氏の祝屋城攻略に参している。

尼子+三吉VS毛利+宍戸

しかし尼子軍敗北。

 

1541年(天文10年):三吉到高の子供である14代新兵衛が大内義隆から「隆」の字を賜って隆亮(タカスケ)と名乗る

この頃から大内氏に帰順する。

 

1544年(天文13年):尼子氏が備後布野に侵入して三吉氏の領内を攻める、毛利方の援軍が来るが、尼子側は毛利方の福原貞俊・児玉就忠を一蹴(布野崩れ)、なんとか三吉氏も踏ん張って尼子氏を撃退する。

※この頃には三吉氏は完全に尼子氏を離反している。

 

1551年(天文20年):陶隆房は大内義隆をクーデターで倒すと、毛利元就に安芸・備後の国人をまとめる権限を与える。元就はこれを背景に大内義隆を支持する国人を攻撃して徐々に勢力を拡大する。

1553年(天文22年):三吉致高・隆亮父子に起誓文を提出させ、三吉氏を毛利家臣団に組み込む。

 

1559年~1562年(永禄2年~永禄5年):三吉氏は永禄2(1559)年に備中に出陣、永禄5(1562)年に石見に出陣し毛利氏の軍役を担う。

 

1573年(元亀4年):三吉隆亮・広高父子は毛利輝元と盟約の起誓文を交換している。

1591年(天正19年):三吉広高は江の川沿いの比熊山に新たに城を築城して拠点を移したため、比叡尾山城は廃城となる。

 

 

城主家系図

佐々木三吉氏

 

 

藤原三吉氏

 

城主石高

三吉領

6101.740石

内訳

4838.895(備後 三吉)

1262.845(備後 恵蘇)

 

所感

●毛利元就に嫁いだ三吉隆亮の娘は、富田元秋、出羽元倶、末次元康の生母となった。

ただし三吉隆亮ではなく三吉某の娘ともある。

●城までは岩屋寺に行く山林の舗装道を行き途中から砂利道になるが、そのまま進みため池のあたりに車を止めていく。

※舗装の道をそのまま行くとすぐに菩提寺であった光源寺跡と祈願寺であった岩屋寺がある。

●数年前は藪化が著しく本丸など全然見通しが悪かったが最近になって地元のボランティアの方が土日で藪刈りをしている。

 

●遺構は綺麗の残っておりまた、本丸付近から見える三吉盆地の雲海は非常に綺麗。

 

●石組みの跡があるが、何の目的で作られたのかは不明。

●主郭群と北西の屋敷跡?また東にも郭群があり何百年もかけて拡張されていったものだと推測。

 

関連URL

【広島県】比熊山城【三次市三次町上里】

三吉広高の時代(1591年)に日熊山城に居城を移転した。

 

参考URL

比叡尾山城(ウッキペディア)

山城放浪記(備後比叡尾山城)

三吉氏(ウッキペディア)

武家家伝三吉氏

 

参考文献

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『日本城郭大系13』

『三次市史 第一巻』

『萩藩諸家系譜』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

 

公開日2021/4/25

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