城データ
城名:尾関山城
別名:積山城,小丸積山城,三次城
標高:202m
比高:50m
築城年:戦国時代か
城主:上里守光,尾関正勝,浅野氏
北緯:東経:34.814333,132.839915
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
現在は公園になっている。
看板
標高202m 市街地の北隅、清流江の川畔にあるこの公園は春はさくら、つつじ、初夏の青葉によく、秋のもみじ、月見、冬の雪景にすぐれた自然公園です。
もとは小丸積山といって天正年間(1573~1591年)三吉氏の重臣、上里越後守の居城としたところですが、
慶長6年(1601年)福島正則の重臣、尾関石見守正勝が二万石を領してここに入城してから尾関山というようになりました。
寛永9年(1632)三次藩主として浅野因幡守長治が入封すると、ここに下屋敷が置かれ、頂上に天文台(発蒙閣)を設けました。
大正初期、昔の城郭残塁の段を生かして広場、遊歩道をつくり、さくら、もみじなどを植えて現在に至っております。
なお、公園南麓にキリシタン灯籠があり、伝道苦難の跡がしのばれます
行くなら秋が一番いい。
竪堀か。
そのまま歩いていく、上の曲輪は三吉台。
石積みの遺構もある。
江の川が麓を流れている。
上里台の石積み跡。
上里台。
本丸部分の石見台。
発蒙閣(天文所)跡から見える比熊山城。
発蒙閣から見る比叡尾山城(山の中腹の建物は岩屋寺)
発蒙閣からみる城下町の風景。
因幡台に降りる道にある石垣。
福島台。
福島台にある石垣。
因幡台の西麓にある遺構。
付近の石垣。
階段状になっている石段。
西江寺(尾関正勝墓)
尾関正勝墓。
『芸藩通志』にもしっかり記載されている。
鳳源寺(三次浅野家菩提寺)
近隣には浅野氏の菩提寺である、鳳源寺がある。
浅野内匠頭の妻の遺髪塔。
三次浅野氏の墓。
鳳源寺も『芸藩通志』に記載されている。
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』尾関山城
城の概要
現在、公園となっており、大きく改変されているものと思われるが、現状は下図のとおりである。
1600(慶長5)年、安芸、備後に入部した福島氏は、主要な地域に城を築き一族、重臣を配置した。
三次には、「三次城」に尾関石見守を配しており、この「三次城」が尾関山城跡に比定されている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
尾関山城は、三吉氏の居城である比熊山城の南麓の独立丘陵に近い地形を利 用して、本丸を中心に同心円形に郭を配置し、南側は眼下に江ノ川を水濠とした戦国時代の城である。
尾関山城の北側にそびえる比熊山城の大手道は、その虎口から葛掘状に尾関 山城に向かって延びる丘陵の東側に下っている。このことから尾関山城は、比熊山城の出城として、三吉氏の信頼が厚く、神主である上里越後守守光を置い て大手を守らせていたのであろう。
尾関山城は、積山城といっていた。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦後に毛 利氏が防長に移封されると、比熊山城主の三吉広高は浪人となった。翌年、福島正則が安芸・徹後の両国を与えられて広島城に入ると、正則は、三次地方の 守りとして、重臣尾関石見守正勝に二万石を与えて城主としたことから、この 城を尾関山城と呼んだのである。
福島正則が、広島城の無断修築を理由に徳川幕府に改易されると、和歌山か ながあきら ら浅野但馬守長晟が広島に入城した。長晟は、支藩として、三次に三次藩五万 石を設け、長男の因幡守長治を置き、県北の守りとした。
その後、三次藩は一 度途絶えるが、のちに再び三万石の三次藩として置かれ、尾関山城の東方に館 を構えた。また尾関山城の北側には下屋敷を設け、本丸跡には天文所として発 蒙閣が建てられた。
尾関山城の本丸は、現在、石見台と呼んでいる六〇m×七〇mの規模の郭で、 その北側には四m高い櫓跡とみられる発蒙台と呼ばれていた一五m×三八mの郭がある。
発蒙台の北側の腰郭の下には、八〇m×一二mの規模の三吉台がある。
また、北東側には三八m×一五mの石積みの福島台があり、三吉台との間には段差の 郭群を設けて連絡している。
南側は小郭の下に四〇m×一二mの郭があり、福島台に連絡している。
本丸(石見台)の北から西側にかけては幅八-二〇mの上里台があり、南側に は上里台との間に小郭を設けているほか、七〇m×二五m規模の二の丸(因幡 台)があり、その下に一二〇m×二〇mの三の丸(望巴台・迎陽台)があり、さ らにその下に幅七mの細長い郭がある。
尾関山城は現在、公園化されているため、一部は原状を失っているが、郭の 大部分はよく旧状をとどめている。郭の一部は、のちに尾関氏によっ て修築されたようであるが、浅野氏の代になると廃城となった。なお、尾関石見守正勝の墓は、この城の東北方の西江寺にあり、浅野氏の墓所は鳳源寺境内にある。
『日本城郭大系13』より引用。
城の歴史
1573~1591頃
三吉氏の家臣である上里越後守守光の居城であった。
1601年
福島正則筆頭家老の尾関石見守正勝が2万石で入城する
1619年
福島正則が転封するが尾関石見守は同行せず翌年同地にて死去。
1632年
三次藩主として浅野因幡守長治が5万石で入封する
上里氏について
上里氏については三吉氏の庶流の可能性もある。
上里村は「芸藩通志」に「此村もと原村の内にて、 三吉家士上里越後の所持たる故に別村とし、其氏を以て 村の名とす」とあるように、原村から分村して成立。
三次郡に属した。「国郡志下調書出帳」には天正年間(一五七三~九二)三吉広隆(広高)の家臣上里越後が、比熊山麓の構 山(現尾関山)に拠り、諸人これを上里御役所とよんだのが 村名となったとある。
『三次市史 第一巻 376ページ』より引用
この三代兼家の子供である家信の子供が酒屋太郎家通と名乗り、この家通の子孫が上里氏を名乗ったとの伝承もあるが詳細は不明。
萩藩上里氏家系図から。
上里越後守守光の名前は出てこないが、この一族の誰かの可能性がある。
その他の上里氏として、広島県尾道市御調町丸門田にある丸山城の城主も上里氏で、上里丹後あるいは上里周防、その後に上里善九郎通職、上里民部助実、上里四郎三郎元実と続いたという。
城主石高
尾関正勝時代には寄騎衆分も含め21,017石を領したとある。
所感
●公園として三次市民の憩いの場となっている。
●紅葉が非常に綺麗でありこの時期(11月下旬)に行くといい。
●公園化さえた道よりもその麓にあり郭群の壁面をみると石垣の跡などが多くありここが昔は城であった事を物語っている。
●他の部分にも城跡の遺構である石垣はところどころありこれ等を探して見て回ると面白い。
●恐らく比熊山城の出城の役割を担っていたものと思われる。
●上里(アガリ)氏は神官であったとの伝承もある、また三吉一族の可能性もある。
関連URL
尾関山は三吉氏時代は日熊山城の出城の役割をしていたものと考えられる。
主君である三吉氏の居城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『日本城郭大系13』
『広島県の地名』
公開日2021/04/25