城データ
城名:山崎城
標高:200m
比高:60m
築城年:天文年間(一五五二~五五)
城主:山崎毛利氏(毛利中将)
場所:鳥取県鳥取市国府町山崎
北緯東経:35.445104/134.339428
攻城記
麓に看板があり分かりやすい。
道なりに進んでいく。
下からみた看板のところに到着。
城址から麓を見る
本丸方向。
若干の石積も判別できる。
土留程度の石積。
本丸到着。
本丸部分。
麓を望む。
石垣跡。
周辺部分。
山崎城の隣には「殿ダム」がある。
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
山崎城は国府町山崎の背後の山にあった。山頂に「二十間(約三六 位」の平地があり、「井ノ跡」もあったといわれ、西を大手としている。
当城は国侍毛利氏の築いた城で、代々毛利一門が居城していた。毛利氏につ いては、『因幡志』に「大江広元ノ裔流ニテ当国二十二代相続セリト、其支族皆毛利氏ヲ称ス。天文ノ比当城主毛利中将ト云ケル、私都ノ一門毛利豊元ノ奸 おおかや 計ニ陥リ一朝ニ滅亡ス」とある。
毛利氏の領地は袋川流域の大草谷一帯で、殿 村(国府町殿)は家中屋敷があった所といわれている。
『日本城郭大系14』より
城の歴史
室町時代頃に因幡毛利氏が築城したと言われ、一族の山崎毛利氏が居城した。
天文年間に城の立地する大萱(おおかや)郷が但馬と通じる要所であることに目をつけた本家に攻撃され(山崎城の戦い)落城、山崎毛利氏滅亡後は私部本家のものとなった。
ウッキペディアより引用。
「因州記」に此ノ城跡ニ焼米多出タリ、其内ニ陣鎌一枚掘出タリト云」とあり、大江 広元の末流と伝える国人の毛利氏が大萱郷支配の拠点と したという。
所感
●山崎毛利氏はこの山崎城から西は鳥取市雲山まで広大な範囲に所領をもっていた。
●毛利家とあり大江広元より22代目までは山崎城を守っていたと考えられる。
●城の造りはしっかりしており、本家の因幡山崎家との確執は以前からあったとも考えられる。
●地図を見れば本家である因幡毛利氏と山崎毛利氏の城の距離は近い。
関連URL
勢力範囲として西の末端にある山崎毛利家の城。
本家因幡毛利氏の居城。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』
『日本城郭大系14』
『鳥取県の地名』
『国府町誌』
公開日2021/04/03